ダヴィンチの履歴書

初めましてインターン生の野中と申します。大学では絵画を学んでいました。

さて、美術家というと皆さん何を想像しますか?偏屈とか変人、そういったところですよね。じゃあ実際職業としてはどうなのか様々な歴史に名を残すアーティストの働き方を交えながら紹介していきたいと思います。

第一回はかの有名な美術家。レオナルド・ダヴィンチさん!
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彼を知らない人はまずいないでしょう。

万物の天才といわれた彼は美術だけでなく音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野で重要な発見をしました。「万物の天才」といわれた彼はいったいどんな働き方をしていたのでしょうか?

彼ははじめ芸術家として出発します。14歳の時工房に弟子入りし絵を学びます。このころから芸術家として頭角を現し、20歳になると工房の親方になります。さて、この間レオナルドは工房仲間のボッティチェリと食堂を経営していたことがあるそうです。ボッティチェリも巨匠の一人で「ビーナスの誕生」で有名な画家です。この若かりし頃の二大巨匠が経営していた「Tre Ranocchie ( 三匹の蛙)」という食堂は残念ながらすぐに閉店してしまったそうです。

さて、その後ダヴィンチは工房を辞め、教会などの依頼を受けて個人で壁画や油絵を制作をするようになります。しかしレオナルドは仕事を途中で放り出してしまいます。

30歳のときに仕事を探し、ミラノに渡ったダヴィンチはミラノ公爵に画家ではなく、軍事エンジニアとして自分を売り込みます。レオナルドは実際にミラノとヴェネチアの戦争の時に敵の侵入を防ぐ回転する橋を作りました。その後ローマ公王の息子チュザーレに自身を売り込み軍事顧問兼技術者としてイタリア中を回り要塞や地図を作ります。この地図の完成度が素晴らしく、他には類を見ないほどの完成度だったそうです。

晩年はレオナルドはにフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の城の近くにあるクルーの館が邸宅として与えられました。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子や友人たちとともに静かにそこで過ごしたそうです。

レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードになるそうです。スクードといわれてもピンと来ないでしょう。なんとこの金額は日本円でおよそ二億円ほどになります。うらやましい年金生活ですね。

芸術家……というより彼は軍事関係で財産を築いた人でした。彼の人生はまさにやりたいことを全部やったような人生ですね。彼は好奇心旺盛で飽き性だったためかどこか一つの場所に留まるのではなく様々な場所を転々としました。それでも彼が生きていけたのはやはり彼が天才だったからだと思います。

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