伊藤若冲の履歴書

インターン生の野中です。今日ご紹介するのは日本画の巨匠「伊藤若冲」。

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最近、国立美術館で展覧会がありその盛況ぶりが話題を呼んだ日本画家、伊藤若冲。国内外から高い評価を受ける伊藤若冲はいったいどのような人物だったのでしょうか?

若冲は京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(通称「枡源(ますげん)」)の長男として生まれます。問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者でした。桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代だけ取れば十分な利益を上げることが出来たといいます。

23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名します。しかし若冲は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味がなく、当然商売にも熱心でなかったそうです。芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかったといいます。興味があるのは絵のことだけ、20代の頃から絵に興味を持ち、家業を続ける傍ら模写などをして独学で学んでいました。一時狩野派の門下に入りますが、すぐにやめてしまいます。

本格的に絵を学びだしたのは30代に入ってからでした。家業と絵を二重で続けるのに限界を感じたのか若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまいます。帰って来るや否や家督を弟に譲り39歳で隠居してしまいます。

隠居生活は絵三昧の暮らしを送ります。それを支えたのが弟で困った兄に理解を示し経済面でずっと兄を支えていきます。

代表作となる濃彩花鳥画『動植綵絵(さいえ)』シリーズに着手し、身の回りの動植物をモチーフに描きます。完成まで10年を要した同シリーズは全30幅の大作となり、日本美術史における花鳥画の最高傑作となりました。一匹狼として一人で絵を描いていた若冲は朝廷や政権にも全くコネがなかったにもかかわらず、当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で、2番目に記載されるほど高名な画家となりました。

72歳になった若冲は悲劇に見舞われます。京を火の海にした“天明の大火”です。この大火事で、彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れることとなりました。私財を失ってしまい生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになりました。

74歳から最後の10年間は経済的に支援していた弟も他界し、画1枚を米一斗(15kg)で売る生活を続けます。しかし元々無欲であった若冲は悠々自適に暮らしていたと伝えられています。

若冲はビジネスとして画を描いていたわけではありませんでした。本当に絵が好きだから描いていたのでしょう。

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