ゴッホの履歴書

インターン生の野中です。今回で6回目になりました。

今回紹介するのは日本でも人気の高い画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」です。彼は印象派の中で最も有名なオランダの画家です。小惑星の中には「フィンセント・ファン・ゴッホ」の名前を付けられたものもあります。20世紀の美術に多大な影響を与えた彼はいったいどんな人物だったのでしょうか。「狂気の画家」といわれる彼の生涯を紹介したいと思います

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ゴッホは1853年オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれました。16歳のときから、画商グーピル商会に勤め始めます。熱心な働きぶりを評価され20歳の時にロンドン支店に栄転。しかしゴッホは少年時代から思い込みが激しく上司やお客との対立し、相思相愛だと思っていた相手にフラれ、仕事への熱意を失った彼は23歳のとき商会を解雇されてしまいます。

その後イギリスで教師として働いたりオランダの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、ゴッホは貧しい人や労働者の為に働きたいとアムステルダムで神学部の受験勉強を始めます。ところが受験勉強の難しさから挫折してしまいます。このときからゴッホの自罰癖が現れます。

しかしその後ベルギーの炭坑地帯で伝道活動を行い、怪我や病気で苦しむ人に献身的に尽くし、身なりも労働者と同じようなみすぼらしい恰好をしていました。その熱心な姿勢が認められて、教会から伝道師の仮免許と月額50フランの俸給をもらうようになります。しかし過酷な労働条件や賃金のカット、労働争議の巻き起こる炭鉱町では、社会に憤ることを説くのではなく、キリストに倣うように説いたゴッホはなかなか受け入れられませんでした。そうしておよそ半年でゴッホの常軌を逸した自罰行為は教会の尊厳を損なうものだと免許状を取り上げてしまいます。

行くあてもなくなり彼は実家に戻り絵を描いて暮らしていました。その暮らしぶりは「年金生活者」のようだったといわれています。毎日外を歩き回り周りの風景や人物をスケッチすることでいつしか画家を目指すことを決意します。27歳でのことです。

以降、オランダのエッテン、ハーグ、ニューネン、ベルギーのアントウェルペンと移り住み、弟のテオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けます。この時期には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の主な作品です。

33歳ごろ、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っていました。。

35歳、南フランスのアルルに移り、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、ポール・ゴーギャンを迎えての共同生活を始めます。最初はよかった関係も、絵の方針の行き違いによって次第に関係は行き詰ってしまいます。、

その年の12月末のゴッホの「耳切り事件」で共同生活は終わりを迎えます。以後、発作に苦しみながら病院への入退院を繰り返しました。最後はサン=レミの精神病院に入院しました。時折ひどい発作が襲う中でも「星月夜」など多くの風景画、人物画を描き続けました。

精神病院を退院してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住みました。ゴッホ47歳。画作を続けましたが自ら銃を撃ち亡くなってしまいます。

ゴッホは成功した画家とはいえません。生涯でほとんど絵は売れなかったそうです。評価されここまで有名になったのは死後です。彼の死後、ほとんどの絵は二束三文で売られてしまったり、塗りつぶされてしまったり、納屋の壁に穴が開いたのを修理するのに使われたそうです。現在であれば安くても一億円はするような絵がそのような末路を辿るのは悲しいことです。

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