岡本太郎の履歴書


インターン生の野中です。今日で最終回になります。今回紹介するのは日本の美術をぶっ壊し再発見した「岡本太郎」です。

岡本太郎の父、一平は朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を博し「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名でしたが、放蕩癖があり、家の電気を止められてしまうこともありました。

母、かの子は、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だったといいます。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがあるほどでした。

そんな芸術家一家に生まれた太郎は、周りとうまくなじめず小学校を転入転校を繰り返します。絵は好きで昔からたくさん描いていたそうです。美術の道を決めたのは高校を卒業したとき、東京美術学校へ進学します。

父が仕事でパリに行くのに岡本太郎も休学し一緒に行きます。パリでフランス語を学びながら、パリ大学で美術と民俗学を学びます。21才のとき両親は先に日本に帰国し岡本太郎は8年間一人パリに残ります。1940年戦争がはじまると岡本太郎は日本に戻り、軍隊に入ります。

戦争が終わると様々な岡本太郎は今までにないようなアバンギャンドルな作品を発表し人気を集めます。

岡本太郎は、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ました。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになりました。おなじように琉球諸島や東北地方の日本の古い文化や伝統を再発見し広く紹介することに尽力します。岡本太郎はTVに多く出演したことでもしられています。多くのバラエティーやクイズ番組に出て、「芸術は爆発だ!」などの名言を残しました。

岡本太郎の特筆すべき点は様々なグッズ制作に関わったことでした。有名なものだとグラスやネクタイ、コイのぼり、企業のシンボルなどプロダクトデザインを手がけたことです。当時画家としては珍しいことでした。岡本太郎は絵だけでなく、新しい画家の商業展開の仕方も提案したのでした。

芸術家の生き様いかがだったでしょうか。今まで紹介した画家には共通していることがあります。芸術家として生きるのはいつの時代でも難しいことです。しかしどんなに辛くても絵を描くことを諦めなかったことです。諦めないことは成功を収める上で一番重要なことかもしれません。

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