過去の賢者達 ユトリロ編

どうもインターン生の坂本です。
今回はモーリス・ユトリロです。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1883年12月26日パリで生まれました。彼が生まれた時母親はすでに既に画家として活動していた為、ユトリロの世話は祖母に任せていた。ちなみに父親が誰かはわからないそうです。しかし祖母は酒好きでこのころからユトリロは飲酒していたそうです。

ユトリロが2歳の時癲癇(てんかん)という神経疾患の発作に見舞われ、その後も後遺症が残ったそうです。ちなみにユトリロは最初は「モーリス・ヴァラドン」という名前でしたが、7歳の時スペイン人ジャーナリストの「ミゲル・ユトリロ・イ・モルリウス」がモーリスを自分の息子として認知した為、「モーリス・ヴァラドン」から「モーリス・ユトリロ」と改名しました。
ユトリロが8歳のとき母親は息子を精神病のため病院へ連れて行きます。

1894年半ばから母親は布地商であるポール・ムジスと同棲し結婚します。

ユトリロは中学校に入学し、優秀な成績を収めていたが、問題を多々起こし中学を退学します。
1900年から色々な仕事をするがユトリロの性格の問題とアルコール依存の影響で暴力が増え引っ越さなくてはならなくなります。
1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街に引っ越します。この頃から水彩画を描く練習を始めたそうです。

1904年ポール・ムジスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院します。そして5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、絵を描き始め画家になることを決意したそうです。
1909年翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れます。

1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会でした。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋でした。
またこの時期母親は離婚します。

そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することになります。一時期ユトリロは石膏採掘場に労働に行ったが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になります。
また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとしました。そしてモンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。

1910年に「ノルヴァン通り」という絵が描かれました。明らかに白が強調されている絵でした。ここから「白の時代」と言われユトリロの絶頂期となります。

1912年にユトリロの絵画の価値が急上昇します。
1913年ユトリロ最初の個展を開催しました。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を展示しましたが、この展示会は失敗しました。
しかし、1919年12月に再び個展を開きこれは大成功します。

1921年には、母バラドン、と共に個展を開くなど裕福な環境におかれますが、軽犯罪を起こし刑務所に収監されます。
息子を出所させるため身元を引き取りにいくとユトリロを釈放するには刑務所での生活と同じような生活になる条件を母親にだされます。
例えば金銭を渡さない、責任を持って監視する、行動を把握するなど

その後ユトリロには城が買い与えられそこで生活を送るようになりました。

1933年ユトリロは入信します。その後彼が描く絵は色彩豊かになっていきます。

そして1935年ベルギーの企業家の未亡人と結婚します。この出来事はユトリロ自信大変喜んでいたそうです。
しかし1938年、母シュザンヌが亡くなりました。モーリスはあまりのショックで母の葬儀に
参列することが出来なかったそうです。

その後1955年、モンマルトルに移住します
またこの年、モーリス・ユトリロはパリ名誉市民となりました。
しかし、11月5日、旅先のホテルで肺充血により亡くなりました。

波乱万丈な人生を歩み色々な事件を起こし多くの人から嫌われていたユトリロですが、自分のやるべきことをやり続け極めたことにより最後は多くの人に認められ歴史に名を刻むまでになったその人生はこれから先自分の進むべき道が分からなくなったときの指標になると思いました。

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