鬼島津 島津義久

初めまして、インターン生の今野と申します。

皆さんは日本の戦国時代に興味があるでしょうか?日本という限られた土地の中で様々な戦国大名が群雄割拠している面白い時代なのですが、義務教育課程ではほとんど取り扱っていません。理由は簡単で、最終的な勝者が徳川家であり、江戸幕府が開かれたということを覚えていればいいわけで、それまでの過程はあまり重要ではないのです。今回は歴史に興味がない人でも聞いたことがあるかもしれない戦国大名を紹介していきたいと思います。

第1回は島津義久を紹介します。

タイトルには「鬼島津」と書かれていますが、これは次男・島津義弘の異名であって、偉大な人物なのですが義久自身の異名がないため使用させてもらいました。

島津家は鎌倉時代から薩摩(現在の鹿児島県西部)を治めている名門の家です。島津義久は島津家の最盛期を築き上げた人物です。島津義久は4人兄弟であり全員が武勇、知略に優れていました。

島津家は「九州の桶狭間」と呼ばれる木崎原の戦いで躍進し始めます。木崎原の戦いは1572年、大隅(現在の鹿児島県西部)と日向(現在の宮崎県)を治めていた伊東家の3000の兵を次男・島津義弘が300の兵で撃退した戦いです。伊東家はこの後大きく衰退、やがて島津家に滅ぼされます。この時点で九州は北西部を治める龍造寺家、北東部を治める大友家、南部を治める島津家による三国時代に突入しました。

1578年、日向に大友家が30000の兵で侵攻してくるが、島津氏は20000の兵をもって大勝しました。大友家は大きく衰退、これを機に龍造寺家が勢力を拡大しました。そんな龍造寺氏家も1584年、現在の長崎で起こった島津家と龍造寺家の戦いである沖田畷の戦いで四男・島津家久の活躍により大名である龍造寺隆信が討ち取られてしまいます。戦国時代に大名が討ち取られた例は今川義元、龍造寺隆信だけであり、当主を失った龍造寺勢は混乱に陥り島津家が大勝します。後に龍造寺家は島津家に従属。

残る大友家も島津家に攻められるも、大友家が天下統一の最中であった豊臣秀吉に救援を依頼。これを大義名分としてして秀吉の大軍勢が九州を統一しつつある島津家と激突します。初戦では大勝した島津家であったが、物量の前ではどうにもならず島津義久は降伏。領地を没収され、薩摩一国を安堵され豊臣政権に下ります。

後に豊臣秀吉が死没し関ヶ原の戦いが起こると、島津氏は当初東軍につくつもりでしたが、不測の事態により西軍に参戦します。しかし、徳川家康率いる東軍が勝利したため、島津家は敗軍となってしまいます。しかし、島津義久の外交工作により、領地を没収されることなく薩摩を安堵されます。薩摩まで攻めるには天下人の家康といえど負担が大きいこと、徳川四天王である井伊直政に島津義久の必死の働きかけをしたためであるといわれています。

義久は非常に謙虚な人柄であり、徳川家康に合戦での手柄話を乞われた際も、「全て弟たちや家臣団の手柄で自分の働きなどひとつもない」と答えたそうです。また、節約家であり、大衆にも見える城門も非常に質素であったといわれています。

余談ですが、この島津家が治める薩摩藩が幕末に長州藩(現在の山口県)と手を組み、徳川幕府を滅ぼすことになります。

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