土佐の出来人 長宗我部元親

インターン生の今野です。

第3回は長宗我部元親を紹介します。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

長宗我部元親が家督を継いだ時の長宗我部家は、土佐(現在の高知県)のほんの一部分を治める領主にすぎませんでした。この頃の土佐は津野家、大平家、吉良家、本山家、安芸家、香宗我部家などの小領主が勢力を争っており、西土佐に比較的大きな勢力である一条家がいる状態でした。

元親は周りの小領主を次々と降伏させ、一条家にも攻めかかります。一条家の当主はゲーム「信長の野望」で能力が全武将中最低値に設定されていることで一部の人に有名な一条兼定です。一条兼定は元親に敗れ、九州に追放されます。翌年に兼定は九州の大友氏の後援を受けて旧領回復を目指し、四国に上陸するが3日後に敗北。土佐統一を成し遂げた元親は、三好家が支配する阿波(現在の徳島県)、讃岐(現在の香川県)をほぼ制圧します。

この頃中央は織田信長が支配しており、急な勢力拡大に警戒を示した信長は元親に対して臣従を迫るが、元親はこれを拒否します。当時、大都会である近畿をほぼ手中に収めていた信長と四国統一前の元親とは戦力が桁外れでした。しかし、信長が四国に大規模な軍勢を差し向けようとした矢先に本能寺の変が起きたため、四国攻めは中止となり長宗我部家は一命をとりとめます。その後、伊予(現在の愛媛県)を治めていた河野家を降伏させ、四国を統一しました。

しかし、次は織田家を乗っ取った豊臣秀吉が元親に対して臣従を迫るが、またもや元親は拒否します。豊臣勢は10万の大軍で四国に侵攻、すでに豊臣政権下に組み込まれていた中国地方の毛利家も四国に侵攻を開始します。多方面から攻められた元親はついに降伏し、豊臣家に臣従しました。

その後も元親は豊臣政権に従って各地を転戦しますが、1599年に死没。関ケ原の戦いで西軍に属した長宗我部家は領地をすべて没収されます。当主であった長宗我部盛親は大坂の陣で真田幸村と並ぶ「五人の衆」として戦い、討ち死にしました。

元親には「土佐の出来人」という異名がありますが、信長からは「鳥無き里の蝙蝠」をもじって「鳥なき島の蝙蝠」と揶揄されたことも有名です。簡単に言えば、強敵がいない中で威張ってただけだろということですね。

ちなみに私の長宗我部元親に対する第一印象は、坂上田村麻呂の次ぐらいに名前を言いたくなる日本史の人物でした。

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