相模の獅子 北条氏康

インターン生の今野です。

第5回は北条氏康を紹介します。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%BA%B7

北条氏康は小田原北条氏の第2代当主である北条氏綱の嫡男として1515年に生まれました。小田原北条氏は元は伊勢氏であり、関東を支配するにおいて北条の名を利用するために改姓しました。ですので鎌倉幕府の執権であった北条家とはほとんど関係はありません。

北条氏康が家督を継いだときには、北条家の領地はすでに伊豆(現在の伊豆半島)、相模(現在の神奈川県西部)、武蔵南部(現在の神奈川県東部)、下総(現在の千葉県北部)、下総(現在の神奈川県東部)、下野(現在の栃木県)にまで及んでいました。しかし、周辺には甲斐(現在の山梨県)の武田家、駿河(現在の静岡県)の今川家、武蔵北部と上野(現在の群馬県)の関東管領である山内上杉家がおり、磐石とはいえませんでした。厳密には違いますが、関東管領は室町幕府より任命される関東地区の長官だと思ってもらって結構です。

1545年、武田家を除く周辺勢力により北条包囲網が築かれます。今川家は武田家の仲介により和睦しますが、山内上杉家のもとには室町幕府の権威が失われているとはいえ関東管領の名の下に80000の大軍勢が集結し、北条家の河越城に攻撃を仕掛けてきます。この大軍勢を河越城の3000の兵と救援に駆けつけた氏康の8000の兵で奇襲を仕掛け見事に退散させました。これが日本三大奇襲のひとつに数えられる「河越夜戦」です。この戦いで関東の諸勢力はは北条家に臣従します。その後、氏康は山内上杉家の支配する上野に侵攻し、山内上杉家の当主であり関東管領の上杉憲政は越後(現在の新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに身を寄せます。

1560年、上杉憲政擁する長尾景虎が関東に出陣します。関東管領という大義名分に軍神とも恐れられていた長尾景虎の求心力も相まって、長尾景虎のもとに100000の兵が集結しました。長尾景虎は北条家の拠点を次々制圧し、ついには本拠地の小田原城にまで攻め寄せられます。しかし、小田原城は非常に堅固であり、連合軍の内部分裂も起きたため、長尾景虎は撤退しました。関東諸将はまた北条家に臣従します。これが何度も繰り返されるが、最終的に氏康は関東の支配を磐石にします。

1571年、北条氏康は死去。あとを継いだ北条氏政の代で豊臣秀吉による小田原征伐をうけ、戦国オールスターズに攻められた北条家は滅亡してしまいました。

北条家は私の一番好きな戦国大名家です。トライフォースを見るとゼルダではなく北条家の家紋が思い浮かぶほどです。戦国時代の幕開けとなった大名家であり、豊臣秀吉の天下統一を最後まで抵抗し華々しく散った姿に惹かれました。何かあったら小田原城に引きこもるところも、面白くて好きです。小田原征伐の際には、勝ち目のない戦でも内部分裂を起こさずに一丸となって戦っていたそうです。領民に対しては基本的に善政を敷いており、氏康の代には三公七民(税が三割、民に7割)、氏政の代には二公八民だったそうです。ちなみに、いろいろおかしいことで有名な島津家は八公二民だったそうです。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

インターンシップへの申し込み・お問い合わせ先

インターンシップへの申し込み・お問い合わせ先
メールでのお問い合わせは、下記フォームに入力して送信してください。
ご氏名 (例)山田 太郎
メールアドレス 半角英数字:ご入力間違いのないようにご注意ください
メールアドレス(確認用) 半角英数字:ご入力間違いのないようにご注意ください
電話番号 (例)0354339211 ※ハイフン抜きで入力してください
題名
お問合わせ内容

アーカイブ

カテゴリー