甲斐の虎 武田信玄

インターン生の今野です。

第7回は武田信玄を紹介したいと思います。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
1521年、武田信玄は甲斐(現在の山梨県)を治める武田家の嫡男として生まれます。当時の当主である武田信虎は信玄よりも、後に生まれてきた弟の信繁を溺愛し、当主に据えようとも考えていました。

1541年、21歳になった信玄は父である武田信虎を追放し無理やり家督を相続します。金が採れるとはいえ甲斐は決して豊かな土地ではなかったため、信玄は周辺勢力との同盟を破棄してでも積極的に領地を拡大していきます。そして、信濃北部を治めてた村上家を滅ぼし、信濃を平定しました。

しかし、村上家の当主である村上義清が越後の上杉謙信に救援を求めたことで上杉謙信と武田信玄の長きにわたる戦いが始まります。1553年から1564年まで5回に渡って川中島で戦いを繰り広げます。途中、関東の北条家と駿河(現在の静岡県)の今川家との間に甲相駿三国同盟を結び、後ろを固めたことで上杉家との戦いに集中することが可能となったが、勝敗はつきませんでした。そこで信玄は外交政策を一転して、1560年に桶狭間の戦いで今川義元を討ち取られ弱体化していた今川家に矛先を向けます。

1568年、甲相駿三国同盟を破棄し、三河(現在の愛知県西部)を治めていた徳川家康と共に駿河に侵攻し、今川家の領土を領国化しました。その後、中央で勢力を広げていた織田信長に対抗するための信長包囲網に参加し、織田家と同盟関係であった徳川家の領土に侵攻します。信玄は次々と城を落とし、三方ヶ原の戦いで徳川家康に完勝するも病状が悪化し、生涯に幕を閉じました。武田家は次の当主である武田勝頼の代で、織田家、徳川家に滅ぼされました。

武田信玄は上杉謙信とセットで覚えているひとが多いのではないのでしょうか。理由はどうであれ父親の追放、数々の同盟を反故にしてきた信玄を謙信は快く思っていなかったのは事実でしょう。信長包囲網の最大勢力は武田家であったため、信玄の寿命がもう少し長ければ、包囲網側が勝利していたか、信長の物量が勝利していたか気になるところではあります。信長も信玄を刺激しないように贈り物などを送っていたようですから、相当恐れていたのでしょう。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

インターンシップへの申し込み・お問い合わせ先

インターンシップへの申し込み・お問い合わせ先
メールでのお問い合わせは、下記フォームに入力して送信してください。
ご氏名 (例)山田 太郎
メールアドレス 半角英数字:ご入力間違いのないようにご注意ください
メールアドレス(確認用) 半角英数字:ご入力間違いのないようにご注意ください
電話番号 (例)0354339211 ※ハイフン抜きで入力してください
題名
お問合わせ内容

アーカイブ

カテゴリー