表裏比興の者 真田昌幸

インターン生の今野です。

第八回は真田昌幸について紹介したいと思います。
真田昌幸と言われても誰?と思う人がいるかもしれませんが、真田幸村の父親だといえば伝わる方もいるでしょう。

引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8

真田家はもともと武田家の家臣であり、信濃北部の一部を治める国衆でした。真田昌幸は真田家の三男として生まれたため、本来家督を継げる立場ではありませんでした。一番の激戦であった第4次川中島の戦いで初陣をかざり、その後の活躍により武田信玄からも一目置かれる存在となりました。武田信玄が亡くなり、武田勝頼が当主となると、武田家は強大になっていた織田家とその同盟国である徳川家と対峙することとなります。その中でも特に有名なのが教科書にも載っている長篠の戦いです。武田家が完敗したこの戦いで真田昌幸の兄が2人とも討たれてしまい、真田家の家督は真田昌幸が継ぐことになります。

武田家が織田家と徳川家から攻められ滅亡すると、これを機に独立します。織田家に従い領地を安堵されますが、1582年に本能寺の変が起こり織田家の庇護を受けられなくなります。甲斐、信濃は武田家を滅ぼして織田家が治めていたのですが、本能寺の変により空白地帯となってしまいます。周辺にはその空白地帯を奪おうとする三勢力が存在しました。越後の上杉、関東の北条、駿河(現在の静岡県)あたりを領地化していた徳川家です。真田昌幸の領地はその中心地帯にあったため、この三家に臣従、裏切りを繰り返し少し領土を拡大させていきます。時には徳川の7000の兵を上田城で2000の兵で退散させました。

その後、織田家のっとり中央を支配していた豊臣秀吉の軍門に下り、所領を安堵されました。豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起こると、長男の真田 信幸が東軍、昌幸と真田幸村は西軍に分かれました。真田家を生き残らせるためにわざと分かれたとも言われています。真田昌幸は関ヶ原に向かう徳川秀忠率いる徳川家40000の本隊を僅か3000の兵で足止めします。これにより徳川本隊は関ヶ原に参戦できませんでした。しかし、戦いは東軍の勝利で終わってしまいました。昌幸は幸村とともに紀伊(現在の和歌山県)に幽閉され、そこで生涯を終えました。

真田昌幸は真田幸村の影に隠れがちですが、個人的には幸村より偉大な人物であると思います。「表裏比興の者」と言われた昌幸ですが真田家とその所領を守るためには最善の選択であったと思います。2016年の大河ドラマ「真田丸」では草刈雅雄さんが演じていましたが、頼りになる適当おじさんみたいな感じでとてもコミカルに描かれていました。長男の信幸も立派な方ですのでぜひ調べてみてください。

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