海道一の弓取り 徳川家康

インターン生の今野です。
今回で最後の投稿となります。

第十回は徳川家康を紹介したいと思います。

引数元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

戦国時代の最終的な勝者で、最終回に相応しい人物です。日本人なら知らない人はいないでしょう。徳川姓は本来、松平姓から改姓したものなのですが、分かりやすいように徳川姓で統一します。

徳川家康は三河(現在の愛知県西部)を治めている徳川家の嫡男として生まれました。家康が生まれた当時、徳川家は駿河、遠江を治める大勢力である今川家に従属していました。18歳で初陣を飾り活躍しますが、今川家からの恩賞は少なく、徳川家は不満を募らせていきます。家康に転機が訪れたのは1560年に起きた桶狭間の戦いです。この戦いで今川家の当主・今川義元が織田信長によって討ち取られました。家康は今川勢として従軍していたのですが、これを機に独立します。その後、織田家と同盟を結び背後を固めると1569年には甲斐の武田家とともに今川領に二正面から侵攻し、今川家を滅亡に追い込みます。これにより三河、遠江(現在の静岡県西部)に勢力を拡大させました。中央で勢力を拡大させていた織田信長を倒すため、信長包囲網が築かれると、家康は同盟関係にあった織田家につきます。

織田信長が中央の勢力に対処していたころ、信長包囲網に参加してた武田家が徳川領に侵攻してきます。武田家の当主は戦上手で知られた武田信玄であり、三方ヶ原で両者が激突するも家康は完敗、命からがら逃げきることができました。滅亡寸前まで追い詰められた家康ですが、武田信玄の死により武田軍が撤退し、窮地を脱しました。その後、信長包囲網は崩壊。中央を支配した信長は武田家の所領である信濃、甲斐に侵攻し武田家を滅亡させます。しかし、直後に本能寺の変が起こり織田信長が横死します。これによって空白地帯となった甲斐、信濃を巡って越後の上杉家、関東の北条家、信濃の小勢力であった真田家と争いが起こります。小勢力である真田家に負けるなどの誤算はありましたが、空白地帯の大部分を徳川家の所領とすることに成功します。

瞬く間に大勢力となった家康ですが、中央の織田家の所領を乗っ取った豊臣秀吉には敵わないと悟ったのか、豊臣政権に下ります。豊臣政権下では秀吉により大幅加増であるものの、関東へ所領を移されました。秀吉が死去して、秀吉の家臣であった石田三成を中心とした西軍と家康を中心とした東軍との間で関ケ原の戦いがおこるが、家康率いる東軍が勝利します。これにより徳川家の覇権が確定的となり、朝廷より征夷大将軍に任命された家康は江戸幕府を開きました。

徳川家康は正直、織田信長や豊臣秀吉と比べると目立ったことはあまりしていません。しかし、同盟相手に何度も裏切られている織田信長にも家康はついていき、豊臣秀吉に関東へ移封されても素直に従うなど、義理固さや我慢強さが天下をとれた要因ではないかと思います。鳥居元忠や今川氏真、茶屋四郎次郎や榊原康政などとのエピソードからは家康の人情味が伝わってくるので興味があれば調べてみてください。

これまで10回にわたり記事を投稿してきましたが、正直に言うと結構飛ばしています
。歴史好きの方からみられると重要なところも省いていたりします。特に関ケ原の戦いの説明は自分でも雑すぎると思います。
10回ということなので、どの戦国大名を選ぶかをかなり迷いました。最終的に今川義元と真田昌幸で迷い、真田昌幸を選びました。今川義元は織田信長に討たれたためにすごく誤解されがちな人物ですが、戦国屈指の優秀な武将だと思っています。豊臣秀吉は個人的にあまり好きでないため、今回は除外させていただきました。

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