蚊相撲
こんにちは。
MBAのインターンシップに参加させて頂いている、高橋樹と言います。
今回紹介させていただく拙作は、“蚊相撲”という作品です。
皆さんは、“蚊相撲”という狂言をご存知でしょうか。ざっくりと言ってしまえば、大名が蚊の精と相撲勝負をするという作品です。題からも分かる通り、この狂言は私の作品の題材となっている作品です。
現代を舞台に、人ならざる存在ととある少年の交流を描いたお話です。伝奇モノ、と呼べばよいでしょうか。そんなファンタジー色のある作品です。
執筆時期はちょうど夏季休暇前頃であったため、夏を舞台にした作品を書きたい、と思いそもそも話の土台にする夏としてのテーマを考えだしました。そして海、山、蛍……といったように夏を彷彿とさせる要素を一つ一つ思い浮かべていく中で、“蚊”の一文字が浮かび上がった瞬間、先述の狂言、“蚊相撲”が頭をよぎりました。これの現代版を書こう。そんなことが思いつき、設定を埋め始めました。怪異の存在を知ってはいるものの深くかかわった事のない少年と強力な妖物の交流。そんな主な流れが考えつき、主人公の誠二と妖、そして二人の橋渡しをする兄の蛍一の設定が決まりました。蛍一が女装の男性になったのは当時女装男子にハマっていた、というのが大きな理由で、女装の似合う兄を意識してしまいそうな弟と、それをからかうように奔放にふるまう兄の組み合わせは、書いていてとても楽しかったです。
少年と妖、一夏の不思議な交流。
興味がある方は、是非、記事からご覧ください。
蚊相撲
「なあ兄貴。 いつまで歩かせるんだよ」
深夜の山奥。高校2年生としては少し大柄な体格を持つ少年、和魂誠二(にぎみせいじ)は兄と共に山奥を歩いていた。木々が鬱蒼と生い茂っているが、今夜は明るい満月が出ており、 月の光に照らされて視界は悪くはなかった。
「悪いな誠二。あと少しだ」
誠二の言葉に少し先を歩いていた兄、蛍一(けいいち)が振り向いて答える。その中性的な声には奇妙な魅力があり、思わず安らぎを覚えてしまう。
蛍一の格好は男性としては率直に言って異様といって差し支えないものだった。顔だけを見てしまえば童顔の美少年といった風貌なのだが、なんと巫女服を身に纏っているのだ。
しかし蛍一はそれを見事に着こなしている。その所作は完全にやんごとなき女性のそれであり、知らぬものが見て彼の性別を正しく判断することは不可能だろう。
いや、知っていても難しいかもしれない。現に生まれてからずっと一緒にいる弟の誠二でさえ時折間違えてしまいそうになるのだ。
なぜ彼がそんな恰好をしているのかについては兄弟の家である和魂家が代々巫女の家系であり、いわゆる退魔師のようなことも生業にしていることから語らねばなるまい。
誠二は詳細を知らないが、大昔に凶悪な怪物が現れた時、神の加護を行使して撃破したことが家の成り立ちだと聞いている。
それ以来外法の存在と戦う事が家業となり、跡取りにはそれに見合う強大な霊力を扱うための高度な素養と教育が求められ、長い年月の間に試行錯誤された。その結果今代まで用いられている技法の1つが日常的に異性の服を着用する事である。
以前蛍一が解説したところによると、 女性が生来持つ霊力と男性が生来持つ霊力というのは別種のモノであり、恰好や生活を異性のものに近づけることで両方の霊力を取り入れることが可能になるのだという。 また、神やその他の霊的存在は男性よりも女性を好む性質を持つことがあり、神事に携わる男児が女装をする儀式というのはあまり珍しくはないのだという。
その他にも様々な理屈を蛍一は述べたが、 それ以上細かいところまで誠二は覚えていない。
……しかし、誠二は蛍一が語った理屈自体は正しいのであろうが、 女装はそれとは別に彼の趣味でもあるのではないかとも考えていた。
事実、蛍一の解説が終わった後、誠二が少しふざけて結局そんな恰好をしているのは趣味なのではないかと尋ねた時、 蛍一は貞淑な乙女のごとく恥ずかし気に頬を赤く染め、はにかみながら否定したのだ。あれは明らかに照れ隠しだ。
あの時の顔は忘れられない。 誠二が弟でなければ、男だと知っていても恋に落ちてしまいそうな破壊力があった。
その時のことを思い出すたび、蛍一はよくぞ理性を保ったと自分を褒めたたえたくなる。
とまあそういった事情で巫女服を纏う兄、蛍一とともに弟である誠二は山の奥を蛍一の導くままに歩き詰めていた。
なぜこんな場所にいるのか。それは誠二も知らない。突然蛍一に夜は空いているかと問われ、首を縦に振るなり連れ込まれたのだ。見当がつくはずもない。
「おい兄貴。 いい加減どういうつもりなのか教えてくれよ」
歩き出してからもう何度目かもわからない質問。訊いたはいいが誠二はまともな答えが返ってくることを半ば諦めていた。
しかし、蛍一の返事は予想と異なっていた。
「大丈夫だ……もう、着いた」
「え?」
蛍一はいつの間にか足を止めていた。気付けば、開けたところに出ていた。数メートル程度の池……というよりは湿地と言うべきだろうか。その上には屋根のように今までの道中影を落とし続けた木々はなく、直接満月の光を受けて水面が輝いていた。
「へぇ……結構綺麗な所じゃん」
誠二はその美しさに感動……というよりも感心していた。確かに見ていて心地が良いと感じる風景ではあるが、自然の神秘だの優雅さだのといったものは一切感じられない。かといって、ささやかな美とするにしても弱すぎる。だから胸によぎる感情は、感動ほど高くなく、落胆ほど低くもない感心だった。
わざわざこんなものを見せられるために連れて来られたのだろうかとぼんやりと思っていると、蛍一が静かに、しかし力強く言葉を発した。
「おい。来たぞ」
誰かいるのかと誠二は思わず周囲を見回す。しかし、ここには二人以外に人のいる気配はない。
『来たか。娘』
不気味な生暖かい風が吹き、それに乗って頭の中に響くような力強い声が聞こえ、思わず身構える。先程まで騒いでいた虫の声も鳴りを潜め、あたりは静寂に包まれた。
やがて湿地の水面からぬるりと抜け出すように一人の男が現れた。
大きな男で、その身長は誠二より少し高い。何より目につくのは男の素肌を覆うただ一つの衣類……黒い褌(ふんどし)だった。褌一丁の男を生で見るのは初めてで、誠二は思わず一瞬笑いかけてしまう。
しかし、その笑いは一瞬で吹き飛んだ。男の体は股間部以外全てをさらけ出していたが、浅黒い肌に覆いつくされた全身は非常に筋肉質で、芸術的と言える美しさを持っていた。
誠二は男が褌一丁という格好であるのも忘れて見入ってしまっていた。
……いや、むしろあの男という存在は褌を含めて完成された存在、完成された美であり、誠二は褌を面白いものではなく、男をさらなる極地へと高める素材として、無意識に高く認識したようにも思う。
しかしそれは永遠ではなく、誠二はだんだんと頭が冷静になり事の異常性を整理していく。
まず男の身長はどう見てもこの浅い湿地の深さを凌駕しており、隠れていたと考えることはできない。
また、水面から出てきたはずにもかかわらず、男の浅黒い肌は濡れていないようで水滴一つ見当たらない。
極めつけに、男の足元を見ると男はどうやら水の上に立っているようだった。
そういった存在とあまり関わらない誠二にもわかる。間違いない。この男は妖の類だ。
「あ、兄貴……」
退魔師の家に生まれたが、誠二は妖物に関しては全くの素人だった。それ故、この場での唯一の頼みの綱は兄である蛍一だけだった。
しかし当の蛍一は、誠二の慌てふためきようはどこ吹く風という涼しい顔で落ち着き払っていた。
「約束を果たしに来たぞ」
『ふっ、まさか本当に来るとは思わなかったぞ、娘』
蛍一と男が会話を始めた。男は蛍一の性別を知ってか知らずか“娘”と呼んでいるようだった。二人の口調に緊張だとか、警戒心だとかそういうものは感じられない。まるで気の置ける友人同士のように二人は話していた。
『それで、本当に俺と相撲を取ってくれるのだな?』
「ああ。もちろん——」
相撲?場にそぐわないように思える言葉に誠二は戸惑いを覚える。……しかし、そんなものは蛍一が続けて紡いだ言葉に一瞬で吹き飛んだ。
「——弟の誠二がな」
……突然自分の名前が出たことに思考が止まる。脳が理解を拒絶する。
「え、あ、あの、兄貴……お兄様? 今、なんと?」
聞き間違いだろう。そう自分に言い聞かせて蛍一に確認をする。しかし——
「え? ああ。誠二、ちょっとこいつと相撲を取ってくれ。」
ほのかな期待は無慈悲に裏切られた。
『ほう……小娘の弟か。なかなかいい体つきをしているな。これは楽しめそうだ』
「気に入ってもらえて何よりだよ」
誠二は狼狽した。この兄は何を考えているのか。人間の姿をしているとはいえ相手は得体のしれない妖怪……外見だけとっても筋骨隆々の大男などという相撲など取ったらただでは済まなそうな相手と相撲を取らせるとは。
そんな誠二の動揺を見て取ったのか、蛍一は優しく声をかけた。
「ああ……大丈夫だよ、誠二。こいつはただここに住んでる相撲好きの精で、別にお前を取って食おうってんじゃないんだ。本当にただ相撲を取るだけだから……ちょっと頼まれてくれないか?」
「け、けど俺相撲のルールなんて知らないし……」
『安心しろ。俺もよく知らん』
「知らないのかよ! 相撲好きじゃないのかよ!」
「ま、それっぽいことさえできれば満足するから。頼むよ誠二」
「——!」
蛍一が誠二に頼みごとをすることは珍しいことではない。蛍一は頻繁にお使いを誠二に懇願する。そして、今回の依頼もいつもと同じ返答が返った。
「はぁ……わかったよ。とりあえず、ちょっとだけ付き合ってやるよ。」
誠二は、兄の懇願を断れない。
「うぉぉぉぉぉ!?」
受け身を取った誠二の体がぬかるみに叩きつけられる。さすがにパンツ一丁で相撲を取るのは恥ずかしいということで、誠二の格好は上を脱ぐだけにとどまっていたが、何度も投げ飛ばされた結果全身が泥だらけになっていた。
『ハッハ! どうした小僧! 少しは歯ごたえがないとつまらんぞぉ!?』
男はその姿に見合った怪力で、いとも簡単に誠二を投げ続けていた。文字通り土をつけられなかった男の体には、汚れはおろか汗すら見られない。
誠二は身体能力に幾分かの自信があったが、まるで子供扱いだ。
相撲を取りたいだけだという話はどうやら本当らしく、上手に投げ飛ばされた誠二の体にはそこまでの負担はかかっていなかった。……もっとも、さすがに投げられ続けて限界が近いが。
息を荒げながら立ち上がろうとする誠二を見て、男が口を開く。
『フム……そろそろ限界か。しかしもう少し手ごたえが欲しいな……そうだ!』
男は白い縞模様の刺青が入った両手を組んで何事かを思案し、少しして何か思いついたように表情を晴らした。
『小僧、一つ次の勝負で手打ちにしないか?その代わり一つ提案があるのだ』
次で最後になる。そう聞いて安心感が誠二の胸の内に広がる。しかし、返事を返す余裕はなく、誠二は目線で男に続きを促した。
『で、その提案だが……どうだ。最後の勝負、俺と賭けないか?』
賭ける? 何を? 誠二が混乱する中、男はやや下卑た笑みを浮かべて告げた。
『最後の勝負、俺が勝てば娘の操をいただこう』
男の言葉は、あまりにも突拍子もなさ過ぎて誠二はしばらく何も考えることができなくなった。やがて、なんとか言葉のような息が口からこぼれる。
「……ハァ?」
『娘は見目も麗しく、健気に純潔を守り固めている。匂いで分かる。さぞや生き血も美味かろう。相手として申し分ない。』
最早肉体の疲労すら忘れ、誠二は必死に言葉を紡ぎだす。
「お、お、男だぞ!?」
『それがどうした。娘は女以上に美しい。性別など抱かぬ理由にはなりえんよ。』
価値観が違う。説得など不可能だろう。誠二はすがるように蛍一に視線を移そうとすると、蛍一の表情を目に入れる直前、男に対する蛍一の返答が耳に届いた。
「ああ。別に構わない。」
あっさりと、大したことでもないように、蛍一は男にそう返した。男は満足げに頷く。
「な、な、な、何言って、何考えてんだよ! 兄貴!」
誠二の言葉として成立しうるかどうかの瀬戸際の叫びを聞き取り、蛍一はなおも柔らかい表情でそれに答える。
「要は、お前が勝てばいいんだろ?」
この兄は先ほどまでの勝負が見えていなかったのか。どう逆立ちしたところで誠二は男にはかなわない。そんなことは直に戦った誠二が一番よくわかりきっているし、見ているだけだった蛍一にも分からないはずはない。なぜ誠二が勝てると信じられるのか。
『さて、十分休めただろう。最後の勝負を始めようではないか。』
心も体も休めてなどいない! そう反論する力もなく、ゆらりと誠二は立ち上がる。
「はっけよーい……」
誠二の内心をよそに、蛍一ののんきな声が響く。
(ああ、この勝負に負ければ兄貴は大変なことに……)
思わず想像してしまう。蛍一、そして目の前の男、そして……
誠二の全身を寒気が駆けずり回る。そんなことは絶対にダメだ! 死んでも勝ってやろう。そう決意する。
「のこった!」
蛍一の掛け声とともに、男が突っ込んでくる。それはまるで漆黒の戦車の突進だった。それに対し、絶対に負けまいと誠二も体を思いっきり乗り出す。
『うおぉぉぉぉ!』
「ふぅ……ぬ、ぐ、ふぅぅぅ!」
男と誠二の体がぶつかり合い、絡み合う。これまでの取り組みではこの時点で誠二の肢体は宙に浮いていたが、死に物狂いで力をかけている今の誠二は何とかまだ地に足をつけていた。
男は大きな声を響かせるが、誠二は息も絶え絶えで、掛け声などは出ない。それでも何とか組み続けることはできた。
しかし、それもいつまでも続かない。やがてもうこれ以上続けたら死んでしまうと本気で思う、その瞬間だった。
ささやかで、さわやかなそよ風が吹く。誠二は気持ちよさを感じるのに一瞬遅れて、違和感を覚えた。
(……あれ? 軽い?)
ふと、男の体を軽く感じたのだ。思わず、そのまま地面に投げ倒す。
すると、男の体は今までの取っ組み合いが嘘だったかのようにあっさりと泥に叩き伏せられてしまった。
「……え?」
状況を呑み込めないでいると、パチパチパチと小さな拍手の音が鳴る。
「やったな。誠二」
見ると、蛍一が手を叩いていた。称賛の言葉によってやっと誠二は自分が勝利した事実を認識し、晴れやかな気持ちになる。
「やった……? 俺、勝ったぁ……!?」
『まさか、そいつを使われるとはなぁ』
男が蛍一の手元を見ながら、泥まみれになった体を起こす。
「まさか、本当にうまくいくとは思わなかったよ。」
男の視線の先、蛍一の手には、うちわが握られていた。そのうちわがどうかしたのだろうか。誠二の目には、どう見ても普通のうちわにしか見えなかった。
「なあ誠二。蚊相撲って話知ってるか?」
蛍一が誠二に話し掛ける。この口調は知っている。蛍一が誠二に解説をするときの語り口だ。
「いや……」
「狂言の1つでな。蚊の精霊と相撲を取るという話なんだが、そいつは結局うちわであおがれて負けてしまうんだ。ま、結局うちわが通じないバージョンもあるが」
蛍一の言葉を聞き、しばらくの間考えてから、ようやくそれがまとまった。
「お前、蚊だったのか!?」
『お? お前まだ知らなかったのか。』
誠二の反応に男——蚊の精は意外そうな顔をする。確かにそう考えれば浅黒い肌に白い縞模様は蚊のように見えなくもないし、確か蛍一の生き血が美味そうだとも言っていた気がする。そこまで考えて、一つの疑問がよぎる。
「ってあれ? こいつ雌だったの?」
血を吸う、というフレーズは蚊を想起させるが、血を吸う蚊は確か雌だけのはずだ。蚊の精の外見は明らかに男性のそれだが実は雌だったのだろうか。
「いや、コイツは確か江戸時代くらいに生まれたからな。確か江戸時代には血を吸う蚊は雌だけだと観測されていないはずだろ?だからこいつは血を吸うけど男性なんだよ」
「……なんでそうなるんだ?」
「だから雌しか血を吸わないっていうのは人間がそれを発見したからそれが世界を修正して……いや、説明してもわからないな。とにかくこいつは血は好きだけど男だ」
さっぱりわからないが、蛍一が説明しても分からないというのならば本当にわからないのだろう。それほど蛍一の知識は現代の常識とはかけ離れているのだ。
「……待てよ?そうなると俺はこいつを実力で倒したんじゃなくて……」
「ああ。俺の手助けで倒したってことになるな」
誠二は恐る恐る蚊の精を見る。この勝負は無効だなどと言い出すのではないかと不安になったのだ。
『ああ。そんなに気にするな小僧。確かに先の勝利は娘の手助けによるものだったが、お前の戦いは投げられてもよいと思えるほどの素晴らしい大健闘であった。それに元より俺は娘と愉しむつもりはない。』
「……え?」
「発破をかけたんだよ。お前にだから俺も乗ったんだ」
誠二は蛍一の言葉に思わずほっと息をつくと同時に、腰が抜けてしまう。
「……なんだよ、じゃあ俺は頑張る必要なかったってことかよ」
『すまないな小僧。詫びと言っては何だが、確か俺が負けた時の約束をしていなかったな』
「……あ」
自分が負けた時の事ばかりを考えていて、誠二はそのことに全く考えが行っていなかった。
『まず娘……蛍一よ。よくぞ俺を楽しませてくれた。何かあれば呼ぶがいい。お前の力となってやろう』
「ありがとうございます」
『それから……小僧。実は俺には名が無い。そこで、お前には俺の名付け親になってほしいのだ。』
「名前……?」
「ハァッ!?」
誠二があっけにとられるのとは逆に、蛍一は心底驚いたという風に大声を上げる。誠二は思わずそちらに目を向けるが、蛍一はすぐに平静を立て直し、
「い、いや、いいんだ。別に何でもない」
と言った。
誠二は蛍一が驚く、それもあんなに大げさにというのは珍しかったので、しばらく目を離せなくなってしまったが、それ以上何か反応するそぶりを見せなかったため、とにかく蚊の精の相手をすることにした。
「えっと……名前を付ければいいんだよな?」
『ああ』
「じゃあ……“横綱“で」
特に考えも無かったので、思いついた名を適当に言ってみた。
『横綱……うむ。善い名だ。感謝するぞ!誠二よ』
蚊の精……横綱は満面の笑みを浮かべ、喜ぶ。たかが名前くらいで仰々しいなあと誠二はぼんやりと思った。
やがて、蛍一と誠二は帰途に就いた。横綱は去り際に
『また遊びに来るがいい。歓迎しよう』
と言って消えてしまった。
山道を下りだしてしばらくしたころ、蛍一がこんなことを言い出した。
「誠二。お前横綱に名前を付けたよな」
「ああ……それがどうかしたのか?」
蛍一の顔はいつになく真剣だった。
「……かなり専門的な話になるからうまく説明できる自信はないが……名前、というのは一種の呪いなんだ。」
「へぇ?」
誠二はもうこの時点でついていけそうな気はしなかったので、話半分に聞くことにした。
「名前が付けられることによって自我が補強され、現世に縛られる。固定という意味でも、拘束という意味でもな。逆に、名が無いということは存在も曖昧……だが、束縛が存在しない……つまり、ある意味無敵と言えるんだ」
「……」
よく分からない、誠二がそう思っている空気を感じたのだろう。敬一は一旦咳ばらいをすると、声の調子を上げて改めて語りだした。
「……要するに、あいつは名前を持つことで弱くなったってことだ。それに、名を付けてもらうということは一種の契約だ。あの時、お前と横綱の間にお前を主とした主従契約が結ばれたんだよ。」
その説明を、誠二は少しずつ理解する。
「……ひょっとして、俺ってあいつに悪いことしたのか?」
その言葉を聞き、蛍一は先ほどまでの険しい表情から、安心したような穏やかな表情になり、優しい口調でそれに返した。
「いや。横綱は満足だよ。それだけお前のことを気に入ったってことさ。」
「……そうか?」
「ああ。そうだ」
正直な所、誠二は少し不安だ。名を付ける事を提案したのは横綱自身であるから、彼もそのあたりの事情も誠二以上にわかっているのだろう。
しかしそれでも弱体化するというのは彼を傷つけたとも解釈できるだろうし、蛍一の驚きようを見るに、その影響は誠二が考えるより……蛍一の言葉以上に強いのかもしれない。
だが、蛍一の言うところの横綱が誠二を気に入ったというのも事実なのだ。
誠二は確かに横綱を傷つけたかもしれないが彼にとってはそれは絆の証明なのだ。
「……だったらよかった」
そこからの帰り道、二人は互いに話題を出し合いながら会話にいそしんでいた。
満月が、二人の帰り道を明るく照らしていた。
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