第六天魔王 織田信長

インターン生の今野です。

第九回は織田信長について紹介したいと思います。

誰もが知っている信長ですが、実は何をやったかは知らない人が多いのではないでしょうか?

引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

織田信長は尾張(現在の愛知県東部)を治めていた織田家の嫡男として生まれます。幼少時から何か奇行を繰り返していたため、「尾張の大うつけ者」と呼ばれていました。織田家周辺には美濃(現在の岐阜県)を治める斎藤家、駿河、遠江を治める今川家がいました。父である織田信秀が死去し、信長が家督を相続してから7年後、信長に最大の危機が訪れました。北条家、武田家と甲相駿三国同盟を結んだ今川家が後顧の憂いなく大軍で尾張へ攻めてきました。

当時、天下に最も近いと言われていた今川家40000の兵を5000の兵で迎え撃つことになります。信長は当主の今川義元が桶狭間で休憩中に奇襲を仕掛けます。天運もあって奇襲に成功した信長は今川義元を討ち取りました。当主を討ち取られた今川家は撤退し、これに乗じて今川家に従属していた徳川家康も三河で独立、今川家は一気に衰退しました。信長は背後を固めるために徳川家康と同盟を結び、勢力を拡大させていきます。

斎藤家を滅ぼし美濃を掌握すると、京から追われた後の15代将軍足利義昭が信長のもとに身を寄せると、義昭を奉じて上洛することを大義名分として京方面にも勢力を拡大させていきました。上洛を果たし、義昭を将軍に立てると、室町幕府を傀儡政権としてさらに勢力を拡大させました。傀儡化されていることに不満を持った義昭は信長の周辺勢力に工作を行い信長包囲網を築き上げます。

この後、信長包囲網が3回にわたり築かれるが、織田家を滅ぼすまでにはいかず全て失敗に終わります。その間に信長は近畿をほぼ掌握しました。当時の近畿地方は京を中心に土地が豊かであり人口も集中していて、近畿を掌握すればあとは物量で勢力を伸ばしていくだけでした。そうして天下統一手前までいった信長でしたが、1582年に起きた本能寺の変により横死します。その後の織田家は所領を家臣の秀吉にのっとられ、逆に秀吉の家臣となってしまいました。

信長に残虐なイメージを持っている人は多いのではないのでしょうか?
確かにそのようなエピソードは多々ありますが、ほとんどは合理性に基づいており、相手の自業自得じゃないかと思えるようなものが数多くあります。アフリカ人の家臣である弥助とのエピソードなどを知ると、結構な面白おじさんなのではとも思えます。信長の天下取りが豊臣秀吉や徳川家康の天下取りの基盤となったと考えるとやはり日本史のなかでも有数の偉大な人物であると思います。

余談ですが、本能寺の変では信長が殺害されたことも重要ですが実は、跡継ぎである織田信忠も近くの二条城で殺害されています。信忠は信長には及ばないものの優秀な武将であり、信忠が生きていれば織田家も内部分裂を起こさずにすんだのではないかと思います。信忠は逃げようと思えば逃げられたといわれているが、逃げずに戦ってしまいました。信長なら即、逃げていたことでしょう。

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表裏比興の者 真田昌幸

インターン生の今野です。

第八回は真田昌幸について紹介したいと思います。
真田昌幸と言われても誰?と思う人がいるかもしれませんが、真田幸村の父親だといえば伝わる方もいるでしょう。

引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8

真田家はもともと武田家の家臣であり、信濃北部の一部を治める国衆でした。真田昌幸は真田家の三男として生まれたため、本来家督を継げる立場ではありませんでした。一番の激戦であった第4次川中島の戦いで初陣をかざり、その後の活躍により武田信玄からも一目置かれる存在となりました。武田信玄が亡くなり、武田勝頼が当主となると、武田家は強大になっていた織田家とその同盟国である徳川家と対峙することとなります。その中でも特に有名なのが教科書にも載っている長篠の戦いです。武田家が完敗したこの戦いで真田昌幸の兄が2人とも討たれてしまい、真田家の家督は真田昌幸が継ぐことになります。

武田家が織田家と徳川家から攻められ滅亡すると、これを機に独立します。織田家に従い領地を安堵されますが、1582年に本能寺の変が起こり織田家の庇護を受けられなくなります。甲斐、信濃は武田家を滅ぼして織田家が治めていたのですが、本能寺の変により空白地帯となってしまいます。周辺にはその空白地帯を奪おうとする三勢力が存在しました。越後の上杉、関東の北条、駿河(現在の静岡県)あたりを領地化していた徳川家です。真田昌幸の領地はその中心地帯にあったため、この三家に臣従、裏切りを繰り返し少し領土を拡大させていきます。時には徳川の7000の兵を上田城で2000の兵で退散させました。

その後、織田家のっとり中央を支配していた豊臣秀吉の軍門に下り、所領を安堵されました。豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起こると、長男の真田 信幸が東軍、昌幸と真田幸村は西軍に分かれました。真田家を生き残らせるためにわざと分かれたとも言われています。真田昌幸は関ヶ原に向かう徳川秀忠率いる徳川家40000の本隊を僅か3000の兵で足止めします。これにより徳川本隊は関ヶ原に参戦できませんでした。しかし、戦いは東軍の勝利で終わってしまいました。昌幸は幸村とともに紀伊(現在の和歌山県)に幽閉され、そこで生涯を終えました。

真田昌幸は真田幸村の影に隠れがちですが、個人的には幸村より偉大な人物であると思います。「表裏比興の者」と言われた昌幸ですが真田家とその所領を守るためには最善の選択であったと思います。2016年の大河ドラマ「真田丸」では草刈雅雄さんが演じていましたが、頼りになる適当おじさんみたいな感じでとてもコミカルに描かれていました。長男の信幸も立派な方ですのでぜひ調べてみてください。

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甲斐の虎 武田信玄

インターン生の今野です。

第7回は武田信玄を紹介したいと思います。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
1521年、武田信玄は甲斐(現在の山梨県)を治める武田家の嫡男として生まれます。当時の当主である武田信虎は信玄よりも、後に生まれてきた弟の信繁を溺愛し、当主に据えようとも考えていました。

1541年、21歳になった信玄は父である武田信虎を追放し無理やり家督を相続します。金が採れるとはいえ甲斐は決して豊かな土地ではなかったため、信玄は周辺勢力との同盟を破棄してでも積極的に領地を拡大していきます。そして、信濃北部を治めてた村上家を滅ぼし、信濃を平定しました。

しかし、村上家の当主である村上義清が越後の上杉謙信に救援を求めたことで上杉謙信と武田信玄の長きにわたる戦いが始まります。1553年から1564年まで5回に渡って川中島で戦いを繰り広げます。途中、関東の北条家と駿河(現在の静岡県)の今川家との間に甲相駿三国同盟を結び、後ろを固めたことで上杉家との戦いに集中することが可能となったが、勝敗はつきませんでした。そこで信玄は外交政策を一転して、1560年に桶狭間の戦いで今川義元を討ち取られ弱体化していた今川家に矛先を向けます。

1568年、甲相駿三国同盟を破棄し、三河(現在の愛知県西部)を治めていた徳川家康と共に駿河に侵攻し、今川家の領土を領国化しました。その後、中央で勢力を広げていた織田信長に対抗するための信長包囲網に参加し、織田家と同盟関係であった徳川家の領土に侵攻します。信玄は次々と城を落とし、三方ヶ原の戦いで徳川家康に完勝するも病状が悪化し、生涯に幕を閉じました。武田家は次の当主である武田勝頼の代で、織田家、徳川家に滅ぼされました。

武田信玄は上杉謙信とセットで覚えているひとが多いのではないのでしょうか。理由はどうであれ父親の追放、数々の同盟を反故にしてきた信玄を謙信は快く思っていなかったのは事実でしょう。信長包囲網の最大勢力は武田家であったため、信玄の寿命がもう少し長ければ、包囲網側が勝利していたか、信長の物量が勝利していたか気になるところではあります。信長も信玄を刺激しないように贈り物などを送っていたようですから、相当恐れていたのでしょう。

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越後の龍 上杉謙信

インターン生の今野です。

第6回は上杉謙信について紹介したいと思います。

引用数:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1

上杉謙信は越後(現在の新潟県)を治める長尾為景の末男として生まれます。なぜ長尾家なのかというと、関東出兵の際に、上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を上杉性に改めたためである。本来、長尾家を継げる立場ではないのですが、家督を継いだ長男の晴景には信望が無かったため、家臣から押される形で晴景から家督を譲り受けました。

その後、武田信玄により信濃(現在の長野県)を追われた村上義清の要請で信濃に出兵、北条氏康により関東を追われた関東管領の上杉憲政や関東諸将の要請で関東に出兵するなど、利益を度外視した出兵を何度も行っていきます。特に関東に出兵した回数は生涯17回にもおよび、信濃に関しても武田信玄と川中島で5度戦いました。また、中央で勢力を拡大しつつあった織田信長の部隊とも加賀国(現在の石川県)の手取川で交戦します。相手は織田家の筆頭家臣である柴田勝家で織田軍4万、上杉2万で劣勢でしたが、これを撃破します。この手取川の戦いの翌年、上杉謙信は死亡しました。

「軍神」「越後の龍」「毘沙門天の化身」など様々な異名で知られる謙信は、武田信玄と並んで日本人によく知られていると思います。私が見た最初の上杉謙信は、大河ドラマ「風林火山」のGACKTさんであったため妖艶なイメージが定着しています。義理堅い武将として知られ、大義の無い侵攻はしなかったそうです。宿敵である武田信玄も後継者である武田勝頼に「何かあったら謙信を頼れ」と言ったそうです。何度も関東に出兵され、大損害を受けた北条氏康も「若い大将の手本にさせたい」と言ったそうです。

生涯戦績43勝2敗25引き分け。 本気で天下を望んだなら、戦国の世はどうなっていたのか気になるところです。

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相模の獅子 北条氏康

インターン生の今野です。

第5回は北条氏康を紹介します。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%BA%B7

北条氏康は小田原北条氏の第2代当主である北条氏綱の嫡男として1515年に生まれました。小田原北条氏は元は伊勢氏であり、関東を支配するにおいて北条の名を利用するために改姓しました。ですので鎌倉幕府の執権であった北条家とはほとんど関係はありません。

北条氏康が家督を継いだときには、北条家の領地はすでに伊豆(現在の伊豆半島)、相模(現在の神奈川県西部)、武蔵南部(現在の神奈川県東部)、下総(現在の千葉県北部)、下総(現在の神奈川県東部)、下野(現在の栃木県)にまで及んでいました。しかし、周辺には甲斐(現在の山梨県)の武田家、駿河(現在の静岡県)の今川家、武蔵北部と上野(現在の群馬県)の関東管領である山内上杉家がおり、磐石とはいえませんでした。厳密には違いますが、関東管領は室町幕府より任命される関東地区の長官だと思ってもらって結構です。

1545年、武田家を除く周辺勢力により北条包囲網が築かれます。今川家は武田家の仲介により和睦しますが、山内上杉家のもとには室町幕府の権威が失われているとはいえ関東管領の名の下に80000の大軍勢が集結し、北条家の河越城に攻撃を仕掛けてきます。この大軍勢を河越城の3000の兵と救援に駆けつけた氏康の8000の兵で奇襲を仕掛け見事に退散させました。これが日本三大奇襲のひとつに数えられる「河越夜戦」です。この戦いで関東の諸勢力はは北条家に臣従します。その後、氏康は山内上杉家の支配する上野に侵攻し、山内上杉家の当主であり関東管領の上杉憲政は越後(現在の新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに身を寄せます。

1560年、上杉憲政擁する長尾景虎が関東に出陣します。関東管領という大義名分に軍神とも恐れられていた長尾景虎の求心力も相まって、長尾景虎のもとに100000の兵が集結しました。長尾景虎は北条家の拠点を次々制圧し、ついには本拠地の小田原城にまで攻め寄せられます。しかし、小田原城は非常に堅固であり、連合軍の内部分裂も起きたため、長尾景虎は撤退しました。関東諸将はまた北条家に臣従します。これが何度も繰り返されるが、最終的に氏康は関東の支配を磐石にします。

1571年、北条氏康は死去。あとを継いだ北条氏政の代で豊臣秀吉による小田原征伐をうけ、戦国オールスターズに攻められた北条家は滅亡してしまいました。

北条家は私の一番好きな戦国大名家です。トライフォースを見るとゼルダではなく北条家の家紋が思い浮かぶほどです。戦国時代の幕開けとなった大名家であり、豊臣秀吉の天下統一を最後まで抵抗し華々しく散った姿に惹かれました。何かあったら小田原城に引きこもるところも、面白くて好きです。小田原征伐の際には、勝ち目のない戦でも内部分裂を起こさずに一丸となって戦っていたそうです。領民に対しては基本的に善政を敷いており、氏康の代には三公七民(税が三割、民に7割)、氏政の代には二公八民だったそうです。ちなみに、いろいろおかしいことで有名な島津家は八公二民だったそうです。

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独眼竜 伊達政宗

インターン生の今野です。

第4回は伊達政宗を紹介したいと思います。

伊達政宗の名前は日本人ならば誰もが一度は聞いたことはあると思います。教科書に大々的に載っているわけでもないにもかかわらず知名度は抜群です。ご年配の方は平均視聴率39.7%という驚異の数字を叩き出した渡辺謙主演の大河ドラマ「独眼竜政宗」、若者はゲームの影響が大きいのでしょう。鎧の格好よさ、国外に目を向ける先見性、破天荒な振る舞いなどが日本人には受けたのだと思われます。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

政宗は幼いとき天然痘という伝染病にかかり、右目の視力を失ってしまいます。これを不吉に思った母の義姫は政宗を可愛がることはしませんでした。しかし、父である伊達輝宗その才能を期待されていました。

1584年、政宗は18歳で伊達家を継ぎます。この頃すでに日本の中央では豊臣秀吉による覇権が確定していました。伊達政宗はその後、蘆名氏などの近場の戦国大名たちに次々と戦いをいどみ勢力を拡大させ。1590年には奥州の3分の1を支配し、大大名となりました。よく「東北の覇者」として東北地方一帯を支配していたと思われている方もいますが、それは間違いです。

1590年、天下統一を目指す豊臣秀吉は、関東一帯を支配していた北条氏を攻めたとき、政宗に家臣になるように求めてきました。政宗は寸前まで迷いましたが、秀吉に従う道を選びます。秀吉の下へたどり着いた政宗でしたが遅すぎるたため、激怒寸前の秀吉。そこで政宗は死ぬ覚悟であることを示すため、白装束を着て秀吉に謁見しました。派手なパフォーマンスが好きな秀吉は政宗を許すことにしました。

秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは東軍に味方し最終的に外様大名では前田家に次ぐ62.0 万石を領有し、仙台藩の藩祖となりました。生まれた頃には群雄割拠の時代が終わりつつあり、すでに覇権が確定してりたため、真実か分かりませんが政宗自身「20年早く生まれてれば天下をとれた」と口にしたといわれています。

個人的に伊達政宗は戦国一の世渡り上手という印象です。戦うときには戦う、謝るときには謝る。破天荒エピソードが山ほどある政宗ですが、状況をよく見極め、冷静に判断できる人物であったと私は思います。「20年早く生まれてれば天下をとれた」かどうかの件に関しては、20年早く生まれていても全盛期の蘆名氏を相手にすることになり、たとえ蘆名氏を倒したところで、関東の北条や越後の上杉を相手にすることになるため、正直言いすぎかなと思います。ただ家臣の支倉常長を強大なスペインへ派遣するなど、先見性や創造性は素直に感嘆します。

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土佐の出来人 長宗我部元親

インターン生の今野です。

第3回は長宗我部元親を紹介します。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

長宗我部元親が家督を継いだ時の長宗我部家は、土佐(現在の高知県)のほんの一部分を治める領主にすぎませんでした。この頃の土佐は津野家、大平家、吉良家、本山家、安芸家、香宗我部家などの小領主が勢力を争っており、西土佐に比較的大きな勢力である一条家がいる状態でした。

元親は周りの小領主を次々と降伏させ、一条家にも攻めかかります。一条家の当主はゲーム「信長の野望」で能力が全武将中最低値に設定されていることで一部の人に有名な一条兼定です。一条兼定は元親に敗れ、九州に追放されます。翌年に兼定は九州の大友氏の後援を受けて旧領回復を目指し、四国に上陸するが3日後に敗北。土佐統一を成し遂げた元親は、三好家が支配する阿波(現在の徳島県)、讃岐(現在の香川県)をほぼ制圧します。

この頃中央は織田信長が支配しており、急な勢力拡大に警戒を示した信長は元親に対して臣従を迫るが、元親はこれを拒否します。当時、大都会である近畿をほぼ手中に収めていた信長と四国統一前の元親とは戦力が桁外れでした。しかし、信長が四国に大規模な軍勢を差し向けようとした矢先に本能寺の変が起きたため、四国攻めは中止となり長宗我部家は一命をとりとめます。その後、伊予(現在の愛媛県)を治めていた河野家を降伏させ、四国を統一しました。

しかし、次は織田家を乗っ取った豊臣秀吉が元親に対して臣従を迫るが、またもや元親は拒否します。豊臣勢は10万の大軍で四国に侵攻、すでに豊臣政権下に組み込まれていた中国地方の毛利家も四国に侵攻を開始します。多方面から攻められた元親はついに降伏し、豊臣家に臣従しました。

その後も元親は豊臣政権に従って各地を転戦しますが、1599年に死没。関ケ原の戦いで西軍に属した長宗我部家は領地をすべて没収されます。当主であった長宗我部盛親は大坂の陣で真田幸村と並ぶ「五人の衆」として戦い、討ち死にしました。

元親には「土佐の出来人」という異名がありますが、信長からは「鳥無き里の蝙蝠」をもじって「鳥なき島の蝙蝠」と揶揄されたことも有名です。簡単に言えば、強敵がいない中で威張ってただけだろということですね。

ちなみに私の長宗我部元親に対する第一印象は、坂上田村麻呂の次ぐらいに名前を言いたくなる日本史の人物でした。

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謀神 毛利元就

インターン生の今野です。
第2回は毛利元就を紹介します。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1

毛利元就は後に中国地方全域に勢力を伸ばす戦国大名になるのですが、はじまりは安芸(現在の広島県)の国人領主に過ぎませんでした。国人領主を説明すると長くなるため、ごく一部の地域を治めている領主と思ってもらって構いません。この頃、中国地方には西の大内家、東の尼子家の二大勢力が存在しました。元就が支配する地域は二大勢力の真ん中に位置しており、どちらかに属さなければ生き残るしか道はありませんでした。毛利家ははじめ、大内家に属していました。

1517年、大内家の主力が不在の間に大内家に属していた安芸武田家が離反し、毛利家の領内に3000の兵で侵攻します。対して毛利勢は援軍合わせて約1000の兵であったが、元就の活躍によりこれを撃退、総大将・武田元繁を討ち取る大戦果をあげます。この戦いは後世で「西国の桶狭間」と呼ばれるようになります。これを機に大内家の庇護を受けられなかった毛利家は大内家から離反、今度は尼子家に属します。

大内家が安芸武田家を攻めている隙に尼子家が大内家の鏡山城を攻めて起こった鏡山城の戦いでは、元就が大内方の副将を寝返らせ尼子軍を手引きさせることに成功し、一番の戦功を獲得。しかし、元就の知略を警戒した尼子家の当主・尼子経久は元就に恩賞も与えませんでした。それに家督相続争いも加ったこともあり、尼子家を見限った毛利家は再び大内家に属します。1540年、勢力を拡大しつつあるがいまだに貧弱な毛利家を討つべく尼子家が3万の兵で毛利家の本拠地である吉田郡山城に侵攻します。わずか3000の兵で籠城した元就は、陥落の危機にありましたが、大内義隆の援軍もあって勝利を収めると同時に、勢いに乗って安芸武田家を滅ぼすことに成功します。

1542年、今度は大内家が尼子家の本拠地である出雲(現在の島根県)の月山富田城を攻撃します。この戦いは毛利家も参戦しますが、大内家は大敗北を喫し、元就も命からがら逃げ帰ることになります。1551年、大内家の当主である大内義隆が家臣の陶晴賢に殺害し、大内家の実権を握る大事件が発生します。月山富田城の戦いで大内家を見限りつつあった元就はどさくさに紛れて安芸にある大内家の領土を奪取。これにより、大内家と毛利家は対立することとなります。1555年、陶晴賢率いる大軍が毛利家を討つべく出陣、厳島で戦いが起きます。これが元就の生涯でも最大の戦いである厳島の戦いです。毛利家の勢力は拡大しているとはいえ相手は強大な大内家。兵力は大内家が30000、毛利家が5000でした。しかし、元就の知略謀略、息子3人の活躍もあって陶晴賢の軍勢を散々に蹴散らし、さらには総大将である陶晴賢を討ち取ることに成功します。クーデターを起こしたとはいえ有力な武将であった陶晴賢を討ち取られた大内家は大きく衰退、その後勢いに乗った毛利家により大内家は滅ぼされます。

瞬く間に大国を有する戦国大名になった元就は1566年、尼子家の当主・尼子晴久の死に乗じて尼子領内に侵攻、尼子家も滅ぼすことに成功し中国地方の覇者となりました。台頭した毛利家であったが1571年に元就が死亡し、長男の毛利隆元も元就より先に死没しているため、毛利輝元が当主となる。毛利輝元は平凡な武将であり、織田信長が近畿地方を制圧し、対立しつつあった毛利家にとって元就の死は最悪のタイミングでした。領地こそ中国地方をほぼ手中に収めていたものの、信長に瀕死の状態まで追い詰められていた毛利家であったが本能寺の変まで耐えきります。その後、織田家の領地を乗っ取った豊臣秀吉に降伏し、豊臣政権下に組み込まれました。豊臣秀吉が死亡し、関ケ原の戦いが起きると西軍の総大将として参戦したが毛利輝元は関ケ原本戦に参戦せず、西軍は壊滅。毛利家の領地は現在の山口県あたりのみとなってしまいました。ここで成立した藩が幕末に薩摩藩と手を結び、江戸幕府を滅ぼした長州藩です。

元就のすごいところは、桶狭間並みの大逆転劇を何度も起こしているところです。孫子の言葉である「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」を具現化したような人物です。
毛利元就を聞いたことがない人でも、「三本の矢」を知っている人は多いのではないでしょうか?
創作ではあるのですが、モデルとなった元就の子である隆元、元春、隆景もなかなか癖のある人たちなので、興味のある方は調べてみてください。
ちなみに「信長の野望」では知略が全武将中最高値である人物です。

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鬼島津 島津義久

初めまして、インターン生の今野と申します。

皆さんは日本の戦国時代に興味があるでしょうか?日本という限られた土地の中で様々な戦国大名が群雄割拠している面白い時代なのですが、義務教育課程ではほとんど取り扱っていません。理由は簡単で、最終的な勝者が徳川家であり、江戸幕府が開かれたということを覚えていればいいわけで、それまでの過程はあまり重要ではないのです。今回は歴史に興味がない人でも聞いたことがあるかもしれない戦国大名を紹介していきたいと思います。

第1回は島津義久を紹介します。

タイトルには「鬼島津」と書かれていますが、これは次男・島津義弘の異名であって、偉大な人物なのですが義久自身の異名がないため使用させてもらいました。

島津家は鎌倉時代から薩摩(現在の鹿児島県西部)を治めている名門の家です。島津義久は島津家の最盛期を築き上げた人物です。島津義久は4人兄弟であり全員が武勇、知略に優れていました。

島津家は「九州の桶狭間」と呼ばれる木崎原の戦いで躍進し始めます。木崎原の戦いは1572年、大隅(現在の鹿児島県西部)と日向(現在の宮崎県)を治めていた伊東家の3000の兵を次男・島津義弘が300の兵で撃退した戦いです。伊東家はこの後大きく衰退、やがて島津家に滅ぼされます。この時点で九州は北西部を治める龍造寺家、北東部を治める大友家、南部を治める島津家による三国時代に突入しました。

1578年、日向に大友家が30000の兵で侵攻してくるが、島津氏は20000の兵をもって大勝しました。大友家は大きく衰退、これを機に龍造寺家が勢力を拡大しました。そんな龍造寺氏家も1584年、現在の長崎で起こった島津家と龍造寺家の戦いである沖田畷の戦いで四男・島津家久の活躍により大名である龍造寺隆信が討ち取られてしまいます。戦国時代に大名が討ち取られた例は今川義元、龍造寺隆信だけであり、当主を失った龍造寺勢は混乱に陥り島津家が大勝します。後に龍造寺家は島津家に従属。

残る大友家も島津家に攻められるも、大友家が天下統一の最中であった豊臣秀吉に救援を依頼。これを大義名分としてして秀吉の大軍勢が九州を統一しつつある島津家と激突します。初戦では大勝した島津家であったが、物量の前ではどうにもならず島津義久は降伏。領地を没収され、薩摩一国を安堵され豊臣政権に下ります。

後に豊臣秀吉が死没し関ヶ原の戦いが起こると、島津氏は当初東軍につくつもりでしたが、不測の事態により西軍に参戦します。しかし、徳川家康率いる東軍が勝利したため、島津家は敗軍となってしまいます。しかし、島津義久の外交工作により、領地を没収されることなく薩摩を安堵されます。薩摩まで攻めるには天下人の家康といえど負担が大きいこと、徳川四天王である井伊直政に島津義久の必死の働きかけをしたためであるといわれています。

義久は非常に謙虚な人柄であり、徳川家康に合戦での手柄話を乞われた際も、「全て弟たちや家臣団の手柄で自分の働きなどひとつもない」と答えたそうです。また、節約家であり、大衆にも見える城門も非常に質素であったといわれています。

余談ですが、この島津家が治める薩摩藩が幕末に長州藩(現在の山口県)と手を組み、徳川幕府を滅ぼすことになります。

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