iPhone4,4sで追加された、有名な機能とは?!

皆さんこんにちは、インターン生の矢口です。

 前回、iPhone3GSの歴史について、見て来ました。今回は、iPhone4とiphone4sについて紹介していきます。

まずは、基本情報を書いていきましょう。

〇iPhone4,4s

引用始め

インチ:3.5

画面サイズ:320×480

解像度:640×960

アスペクト比: 3:2

 ※ここまでは、どちらも共通です。

世代:iPhone4は 第4世代
   iPhone4sは 第5世代

発売日:iPhone4は 2010/06/24
    iPhone4sは 2011/10/14

iPhone4のトピックス:Retinaディスプレイ、前面カメラ、au参入

iPhone4sのトピックス:Siriの搭載

引用終わり

引用元URL:https://dev.classmethod.jp/smartphone/iphone/iphone_simplified_chart/

まず、iPhone4についてです。

 iPhoneの販売会社として、今まではソフトバンクだけの販売でしたが、初めてauが参入してきました。

 次に、性能面では、解像度アップが特徴的です。端末の大きさ自体に変化はありませんが、今までのiPhone3G,3GSの解像度が「320×480」だったのに対し、iPhone4,4sでは、解像度が「640×960」となり、4倍になったことが分かります。

 また、Retinaディスプレイが初めて搭載されたことにより高繊細で、よりきれいな表現が可能になりました。
このことからも、iPhoneの画質が良くなったことが分かりますね。

 また、カメラの機能に関しては、「前面カメラ」が搭載され、ディスプレイ側の写真撮影が可能になりました。
この機能は、「自撮り」をする方にとても重宝されていますよね!
今では、「自撮り棒」もありますし、皆さんの自撮りに対する思いが伝わって来ますね(笑)

次に、iPhone4sになってからは、Siriの搭載が大きな話題を呼びましたね。

 Siriとは音声を認識して、命令をおこなったり、返答してくれる AI のことです。
もう皆さんもご存じではないでしょうか。
今では、都市伝説も出ているので、興味のある方は調べてみてください。(笑)

まとめに入りましょう。主な機能として、

iPhone4で追加された新機能は「前面カメラ」の追加

iPhone4sで追加された新機能は「Siri」の追加

になります。

この後も進化は続きます!少しでも興味を持っていただき、ぜひiPhoneの歴史をこの機会に知ってもらえればと思います。

次回は、iphone5以降について紹介する予定です!

それでは、また次の記事でお会いしましょう!

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

一瞬で神様が○○に?「岩戸山」 今日の一文字「菅公 」

今日は練り物のなかでも個人的に面白いと思っている岩戸山と管公について話していきたいと思います。

まずは岩戸山から紹介していきます。

四日市祭における旧・蔵町のネリとして、幕末から明治初期の頃につくられたとされていて戦争によって燃えてしまいました。

現在の岩戸山のからくり人形と山車は昭和63年に本町通り商店街の人たちによって、ほぼ手づくりで復元され、幕や彫刻、装飾品なども次第に整えられ再び四日市で岩戸山を演武することが出来るようになった。

岩戸山は天宇豆売命(アメノウズメノミコト)様に化けて天の岩戸の前で踊っていた狸が、鉦鼓の音に驚き正体を現し、腹鼓を打ちながら睾丸を膨らませるというユニークなからくり人形。蔵町では大入道と同じからくり人形師が製作したものと伝わっていたが、詳しいことはわからず、記録に残るところでは明治14年の伊勢新聞の記事にあるのが確認されているものでは最も古い。

この練り物の何が面白いかといいますと天宇豆売命様が一瞬で狸になるという所です。まさにアイドルの早着替えもびっくりの早さです。そしてそのあと睾丸を膨らませるところも見ていてクスッと笑えて来ます。

次は管公です。

管公とは手に筆を持った子どもが、額に文字をしたためるからくり人形。書き上げた書を菅原道真公に見せると、菅公が誉めたため子ども達は長唄「鶴亀」の曲にのって喜び踊るところまでを現している。

明治23年の記録に「字を書く人形のある山」とあるので、この時代には文字書きのからくり人形が存在していたことがわかっています。

戦前から新丁の黎として「菅公さん」と呼ばれて親しまれてきたがこちらも岩戸山と同じく戦争で燃えてしまいました。昭和26年に燃えてしまった山車を復興させ、27年にからくり人形も復活しました。

管公の面白いところは文字を書けるという所です。

文字なんてよくからくり人形で書いてるよね?習字ロボットも最近みるよね?と思いました?

管公の凄いところはきれいな字を変えられるところです。去年は龍を書いてたし今年は見なくていいや、と思ってみないのは勿体無い。今回は照を書いています。という風に毎回演武するたびに同じからくり人形なのに文字が変わるのです。なので今回は何の文字を書くんだろうと年末の今年の一字のようにドキドキ、わくわくしながら見ることが出来るのです。

このように面白い練り物がある四日市祭り良かったら見に来てみてください

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

~今では必須!?iPhone 3GSで追加された新機能~

皆さんこんにちは、インターン生の矢口です。

前回、iPhone3Gの歴史について、見て来ました。今回も引き続き、iPhoneの歴史について見ていきましょう。
今日は、約一年後のモデルのiPhone3GSについて紹介していきます。

〇iPhone3GS

まずは、基本情報を書いていきましょう。

引用始め

インチ:3.5

画面サイズ:320×480

解像度:320×480

アスペクト比: 3:2

世代:第3世代

発売日:2009/06/26

OS:iPhoneOS 3.0 〜 iOS 6.1.6

トピックス:動画撮影、音声コントロール、アクセシビリティ、デジタルコンパス

引用終わり

引用元URL:https://dev.classmethod.jp/smartphone/iphone/iphone_simplified_chart/

前回の記事と比べてみて、「スマートフォンのインチ数や画面サイズは変わってないな」と思った方も多いかもしれません。確かに、基本的な見た目は前のiPhone3Gと変わりがありませんが、機能はものすごく進化しています!

トピックスにもあるように、iPhoneで初めて「動画撮影」が出来るようになりました。これにより、動きのあるものや、音声までもが記録として残せるようになりました。今では当たり前の機能ですが、実は、この機能も実装されてからわずか10年しかたっていないのです!

また、アクセシビリティ機能が追加され、からだの一部が不自由な方でも、iPhoneが使いやすくなるような機能が追加されました。

また、発売日に注目してみると、2009/06/26となっており、夏ごろに販売されているという事が分かります。iPhoneと言えば、9月~11月の秋ごろが発売日というイメージを持っている方にとっては意外な情報だと思います。実際、私もこれを知ったときはびっくりしました(笑)

初期のころは、6月、7月ごろに売っていたみたいですね。

それでは、今回の特徴を復習していきましょう。

今回は「動画撮影ができるようになった」、「アクセシビリティ機能の追加」などが挙げられます。

前回の記事と併せて読んでもらい、ぜひiPhoneの歴史をこの機会に知ってもらえたらな、と思います。

それでは、また次の記事でお会いしましょう!

猪を追い詰めろ?「富士の巻狩り仮装行列」

今日は富士の巻狩りについて話していきます。

そもそも富士の巻狩りってなに?という人のために歴史のお勉強の時間です。

建久4年5月に源頼朝が御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩で征夷大将軍たる権威を誇示するためや軍事演習などの目的とされています。

簡単に言うと大人数の武士が動物を四方から追いかけて逃げ場をなくす狩りのことです。四方を囲んで敵を追い詰めるので軍事演習として採用されたのかと思います。

四日市祭りではそんな富士の巻狩りを再現して商店街を渡り歩きます。

四日市市が出来るもっと昔から、その様子を仮装行列の出し物のひとつとして語り継いできました。富士の巻狩りには、法螺貝・銅鑼・太鼓を鳴らし、体調4.5メートルを超える大猪をはじめとするハリボテの猪やウサギなどが逃げまわり、その周りを小さないのししなど動物の仮装をした子どもたちや、源頼朝など武将役の子どもたちが行列を作り、お祭り中の街なかを練り歩きます

その起源は時期・由来ともに詳らかにはなっていません。しかし、江戸時代の画家・司馬江漢が江戸から九州へ旅をしたときにつづった「江漢西游日記」の天明8年(1788)7月26日の項に「四日市諏訪祭なり、夜宮にて亀六と参る、京風の山と云ふ物出る、富士の巻狩りのねり物を見物す」とあり、とても古くから四日市が出来るずっと前から受け継がれてきたのです。

四日市は港や工場が多く戦争の被害がとても大きかったです。戦争で焼失してしまった物も多くあったのですが南浜田町は四日市空襲の被害を受けなかったため、奇跡的に富士の巻狩などの道具類が焼けることはなく今も受け継がれています。

ひときわ目を引く体長4.5メートルの大猪は日露戦争戦勝時に記念して作った大型のものを原形に、修繕しながら受け継がれています。また、武者衣装の中には文政年間や弘化年間の箱書きがあるものも存在します。

引用元http://yokkaichi-matsuri.net/neri/92/116/118.html

そんな富士の巻狩なのですが実はしばらく開催されていませんでした。なぜ開催されなくなってしまったのかわかりません。

しかしこの記事を書いてるのが2019年なのですが2019年は亥年です。なのでせっかくの亥年だということで実に22年ぶりに第55回大四日市まつりにて復活します。

インターンが終わる次の日には四日市祭りが開催されるのでとても楽しみにしながらこの記事を書いています。

この記事が公開されるのは終わった後になるかと思いますが富士の巻狩見てみたいな!と思った方はよかったら四日市祭りに遊びに来てみてください!

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

意外と知らない!? ~iphone3Gの歴史~

皆さんこんにちは、インターン生の矢口です。

 今、日本でほとんどの人がスマートフォンを使っているイメージがありますね。その中でも、iPhoneを使っている人がかなり多い気がします。皆さんもiPhoneを使っているのではないでしょうか?

今回からは、そんなiPhoneについての歴史を紹介していきたいと思います!

 今日は、iPhone3Gについて紹介していきます。

〇iPhone3G

日本において、一番最初に販売されたiPhoneの種類がiPhone3Gでした。

基本情報を書いていきましょう。

引用始め

インチ:3.5

画面サイズ:320×480

解像度:320×480

アスペクト比: 3:2

世代:第2世代

発売日:2008/07/11

OS:iPhoneOS 2.0 〜 iOS 4.2.1

トピックス:3G通信、GPS搭載、Softbank参入

引用終わり

引用元URL:https://dev.classmethod.jp/smartphone/iphone/iphone_simplified_chart/

 このiPhoneの特徴と言えば、日本ではじめて発売されたiPhoneとして有名ですよね!このiPhoneを使ったことや見たことがある人がある人ならわかると思いますが、iPhone3Gはとても小さいんですよね(笑)

今のスマートフォンと比較すると、びっくりするくらい小さいんです!

今の大きめなスマートフォンに慣れている方が、iPhone3Gでゲームをしようとすると、小さくてストレスがたまるかもしれません(笑)

 他に特徴的な点としては、「OS」の部分に「iOS」ではなく「iPhoneOS」と略さずに書かれている点も意外な点ですね!この頃は省略されてなかったことが伺えます。

 また、いまでも使われている3G通信を採用し、GPS機能を搭載したことが挙げられます。今となっては、地図やマップアプリなど、GPS機能を日常生活でよく使っていると思いますが、実は、このGPS機能がiPhoneに搭載され始めてから、まだ10年くらいしかたっていないんですよね..!

たった10年でここまで進化した今のiPhoneと比べると、技術の進歩を感じますね。

 ここまで、iPhoneの特徴をまとめて来ましたが、iPhone3Gの特徴を復習すると、「日本で初めて販売された」、「GPS機能の搭載」、「3G通信が採用された」などが挙げられます。

iPhoneを使っている方も、使ってない方も、ぜひiPhoneの歴史をこの機会に知ってもらいたいと思います。

それでは、また次の記事でお会いしましょう!

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四日市児童の憧れ?「諏訪太鼓」

今日は四日市の祭りやイベントではかかせない諏訪太鼓について紹介していこうかなと思います。

昭和35年、戦争で神輿などが焼失してしまい廃れてしまった祭をどうにかしようと声が上がり、
商店連合会や神社の方々の間で会議を開き、各地を回り考えたのが
長野県の無形文化財に指定されている御諏訪太鼓でした。
「御諏訪太鼓を四日市でしたい」そう考えた人々は
長野県の御諏訪太鼓宗家小口大八さんの元へ直接お願いに上がりました。
これが四日市に御諏訪太鼓が伝承されたきっかけとなったのです。

小口大八さんを四日市にお招きし、太鼓の指導を受けました。
この当時、四日市諏訪太鼓の立ち上げに関わったのは数少ない人達でした。

幾度と無く練習を重ね、四日市で初めて諏訪太鼓が披露されたのは四日市祭の前身である港まつりでした。当時のチーム名は「四日市商店連合会」。
港まつりをきっかけに四日市諏訪太鼓は広がっていきます。
当初は太鼓の打ち手も足らず、師匠である御諏訪太鼓宗家 小口大八さんや
長野県の人々の力を借りての演奏もありました。
しかし「商連」と背中に書かれた法被を着て太鼓を演奏し続けると
太鼓を叩きたいという人々が増えていきました。

太鼓の打ち手が増えると商店連合会は「玄龍」と「白虎」という2つのチームに分かれます。
その後にも打ち手は増え続け、昭和40年、諏訪神社奉納太鼓の復興として
四日市諏訪太鼓振興会が結成されました。

 現在、四日市諏訪太鼓は大人と子供を合わせて35のチームがあります。

夏の大四日市まつりにおいて四日市諏訪太鼓は各チームがトラックの荷台を舞台として演奏しています。
演奏を終えればまた移動して次の演奏場所へ。
それはより多くの方に演奏を聞いて頂きたいという想いからなのです。

四日市諏訪太鼓は大四日市祭の花形として市民に親しまれています。

引用元http://sound.jp/hozonkai/iware.htm

↑四日市諏訪太鼓保存会様

またみなさん太鼓は大人の男の人が叩くイメージがをっ持ってないですか?

諏訪太鼓では小学生の頃から叩き始めて小学生から中学生まで(指導者?の大人も一緒に演奏することも)のチームも多く存在します。また男性ばかりではなく女性も一人や二人とかではなく半分以上女性っだたりと数多く在の児童や女性が籍しています。小学校の学年に一人は太鼓をたたいてるほどで四日市祭りなど大きな舞台で太鼓をたたいている姿はとてもかっこよくその姿をみて諏訪太鼓を叩いてみたいと思った人も少なくありません

そんな大入道山車と並ぶほど諏訪太鼓は愛されて今も祭りで叩かれ続けています。

そんな諏訪太鼓を見てみたいと思った人は是非四日市祭りなどにいらしてみてください

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

怖い?そんなことないよ「大入道」・みんなの愛するゆるキャラ「こにゅうどうくん」

初めまして、インターンで三重県の四日市市からやってきました、大野圭樹です。

せっかくなので私の地元四日市のことをみんなに知ってもらおうと思い記事にして紹介しようと思います。

今回は四日市のマスコットキャラクター、こにゅうどうくんとその親の大入道について紹介したいと思います。

四日市には大入道というろくろ首に似た首や舌が伸びる妖怪がいます。

四日市祭りで行われる大入道山車でその姿を見ることができます。

大入道は小さな民家の屋根すらも超える巨体で首を最大まで伸ばした時の高さが約7メートル近くを越えるからくり人形で国内最大のからくり人形と言われています。

太鼓や銅鑼の音に合わせて首や舌を伸ばし大きく揺れたり白目をむいたりして諏訪商店街を移動します。

大入道は簡潔にあらすじを書きますと

商売を手伝わせてくれと大男が無理を言い働かせてもらいました。すると働き始めてから客足が伸び、大男の評判も良く三年で町で評判の店になった。

ある日男の部屋の前を通ると胴が伸びたり頭が揺らいだりと恐ろしい光景を目にして倒れてしまいました。目が覚め男の部屋に行くと誰もいませんでした。

そんな男の無事を祈って作られたのが大入道といわれています。

引用元http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/minwa/hokusei/yokaiti/index.htm

↑お話

引用元https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%A5%E9%81%93%E5%B1%B1%E8%BB%8A

↑大入道山車

四日市祭りといえばやっぱりこれがないと!というほど古くから行われており住民からも愛されている四日市のシンボルともいえる存在です。

また大入道には息子がおり名前はこにゅうどうくんと言います。誕生日は1997年8月1日で自分が1998年生まれなので1歳差と思いきやこにゅうどうくん自身が永遠の6さいを名乗っているのでどんどん歳が離れていきます。しかもこにゅうどうくんはくんまでが名前でもし歳を取っていたらこにゅうどうくんさんと言わなければなりません(笑)

大入道のように首は伸びないのですが舌は伸びてその舌を伸ばしたい願い、例えば身長や成績、寿命など伸びるということに関しての願いをしながら触れると願いが叶うと言われています。

お化けや妖怪の類なので人を驚かせることが好きです。四日市祭りでも小さい子を追いかけたり舌を伸ばしたりして驚かせています。

愛らしい姿を活かし、みんなにこにゅうどうくん、四日市のことを知ってもらうために東海三県のご当地キャラの人気投票JIMOキャラ総選挙に出場し2位と2倍の差をつけ見事全40キャラクター中1位に選ばれました。

その勢いでゆるキャラグランプリ2018では3位になっておりニュースでも見かけたことがあるのではないでしょうか?

引用元 https://twitter.com/Konyudoukun

    ↑こにゅうどうくんのTwitter

こにゅうどうくんの日常生活をTwitterに投稿しているみたいですぜひフォローしてあげてください

引用元 https://www.city.yokkaichi.lg.jp/www/contents/1506389906312/

    ↑四日市市役所ホームページ

こにゅうどうくんの生みの親の四日市市役所のHP

四日市市の魅力がつまってるのでぜひ見て興味があったら四日市に遊びに来てください。

この記事を読んで興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

海道一の弓取り 徳川家康

インターン生の今野です。
今回で最後の投稿となります。

第十回は徳川家康を紹介したいと思います。

引数元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

戦国時代の最終的な勝者で、最終回に相応しい人物です。日本人なら知らない人はいないでしょう。徳川姓は本来、松平姓から改姓したものなのですが、分かりやすいように徳川姓で統一します。

徳川家康は三河(現在の愛知県西部)を治めている徳川家の嫡男として生まれました。家康が生まれた当時、徳川家は駿河、遠江を治める大勢力である今川家に従属していました。18歳で初陣を飾り活躍しますが、今川家からの恩賞は少なく、徳川家は不満を募らせていきます。家康に転機が訪れたのは1560年に起きた桶狭間の戦いです。この戦いで今川家の当主・今川義元が織田信長によって討ち取られました。家康は今川勢として従軍していたのですが、これを機に独立します。その後、織田家と同盟を結び背後を固めると1569年には甲斐の武田家とともに今川領に二正面から侵攻し、今川家を滅亡に追い込みます。これにより三河、遠江(現在の静岡県西部)に勢力を拡大させました。中央で勢力を拡大させていた織田信長を倒すため、信長包囲網が築かれると、家康は同盟関係にあった織田家につきます。

織田信長が中央の勢力に対処していたころ、信長包囲網に参加してた武田家が徳川領に侵攻してきます。武田家の当主は戦上手で知られた武田信玄であり、三方ヶ原で両者が激突するも家康は完敗、命からがら逃げきることができました。滅亡寸前まで追い詰められた家康ですが、武田信玄の死により武田軍が撤退し、窮地を脱しました。その後、信長包囲網は崩壊。中央を支配した信長は武田家の所領である信濃、甲斐に侵攻し武田家を滅亡させます。しかし、直後に本能寺の変が起こり織田信長が横死します。これによって空白地帯となった甲斐、信濃を巡って越後の上杉家、関東の北条家、信濃の小勢力であった真田家と争いが起こります。小勢力である真田家に負けるなどの誤算はありましたが、空白地帯の大部分を徳川家の所領とすることに成功します。

瞬く間に大勢力となった家康ですが、中央の織田家の所領を乗っ取った豊臣秀吉には敵わないと悟ったのか、豊臣政権に下ります。豊臣政権下では秀吉により大幅加増であるものの、関東へ所領を移されました。秀吉が死去して、秀吉の家臣であった石田三成を中心とした西軍と家康を中心とした東軍との間で関ケ原の戦いがおこるが、家康率いる東軍が勝利します。これにより徳川家の覇権が確定的となり、朝廷より征夷大将軍に任命された家康は江戸幕府を開きました。

徳川家康は正直、織田信長や豊臣秀吉と比べると目立ったことはあまりしていません。しかし、同盟相手に何度も裏切られている織田信長にも家康はついていき、豊臣秀吉に関東へ移封されても素直に従うなど、義理固さや我慢強さが天下をとれた要因ではないかと思います。鳥居元忠や今川氏真、茶屋四郎次郎や榊原康政などとのエピソードからは家康の人情味が伝わってくるので興味があれば調べてみてください。

これまで10回にわたり記事を投稿してきましたが、正直に言うと結構飛ばしています
。歴史好きの方からみられると重要なところも省いていたりします。特に関ケ原の戦いの説明は自分でも雑すぎると思います。
10回ということなので、どの戦国大名を選ぶかをかなり迷いました。最終的に今川義元と真田昌幸で迷い、真田昌幸を選びました。今川義元は織田信長に討たれたためにすごく誤解されがちな人物ですが、戦国屈指の優秀な武将だと思っています。豊臣秀吉は個人的にあまり好きでないため、今回は除外させていただきました。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

第六天魔王 織田信長

インターン生の今野です。

第九回は織田信長について紹介したいと思います。

誰もが知っている信長ですが、実は何をやったかは知らない人が多いのではないでしょうか?

引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

織田信長は尾張(現在の愛知県東部)を治めていた織田家の嫡男として生まれます。幼少時から何か奇行を繰り返していたため、「尾張の大うつけ者」と呼ばれていました。織田家周辺には美濃(現在の岐阜県)を治める斎藤家、駿河、遠江を治める今川家がいました。父である織田信秀が死去し、信長が家督を相続してから7年後、信長に最大の危機が訪れました。北条家、武田家と甲相駿三国同盟を結んだ今川家が後顧の憂いなく大軍で尾張へ攻めてきました。

当時、天下に最も近いと言われていた今川家40000の兵を5000の兵で迎え撃つことになります。信長は当主の今川義元が桶狭間で休憩中に奇襲を仕掛けます。天運もあって奇襲に成功した信長は今川義元を討ち取りました。当主を討ち取られた今川家は撤退し、これに乗じて今川家に従属していた徳川家康も三河で独立、今川家は一気に衰退しました。信長は背後を固めるために徳川家康と同盟を結び、勢力を拡大させていきます。

斎藤家を滅ぼし美濃を掌握すると、京から追われた後の15代将軍足利義昭が信長のもとに身を寄せると、義昭を奉じて上洛することを大義名分として京方面にも勢力を拡大させていきました。上洛を果たし、義昭を将軍に立てると、室町幕府を傀儡政権としてさらに勢力を拡大させました。傀儡化されていることに不満を持った義昭は信長の周辺勢力に工作を行い信長包囲網を築き上げます。

この後、信長包囲網が3回にわたり築かれるが、織田家を滅ぼすまでにはいかず全て失敗に終わります。その間に信長は近畿をほぼ掌握しました。当時の近畿地方は京を中心に土地が豊かであり人口も集中していて、近畿を掌握すればあとは物量で勢力を伸ばしていくだけでした。そうして天下統一手前までいった信長でしたが、1582年に起きた本能寺の変により横死します。その後の織田家は所領を家臣の秀吉にのっとられ、逆に秀吉の家臣となってしまいました。

信長に残虐なイメージを持っている人は多いのではないのでしょうか?
確かにそのようなエピソードは多々ありますが、ほとんどは合理性に基づいており、相手の自業自得じゃないかと思えるようなものが数多くあります。アフリカ人の家臣である弥助とのエピソードなどを知ると、結構な面白おじさんなのではとも思えます。信長の天下取りが豊臣秀吉や徳川家康の天下取りの基盤となったと考えるとやはり日本史のなかでも有数の偉大な人物であると思います。

余談ですが、本能寺の変では信長が殺害されたことも重要ですが実は、跡継ぎである織田信忠も近くの二条城で殺害されています。信忠は信長には及ばないものの優秀な武将であり、信忠が生きていれば織田家も内部分裂を起こさずにすんだのではないかと思います。信忠は逃げようと思えば逃げられたといわれているが、逃げずに戦ってしまいました。信長なら即、逃げていたことでしょう。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

表裏比興の者 真田昌幸

インターン生の今野です。

第八回は真田昌幸について紹介したいと思います。
真田昌幸と言われても誰?と思う人がいるかもしれませんが、真田幸村の父親だといえば伝わる方もいるでしょう。

引用先:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8

真田家はもともと武田家の家臣であり、信濃北部の一部を治める国衆でした。真田昌幸は真田家の三男として生まれたため、本来家督を継げる立場ではありませんでした。一番の激戦であった第4次川中島の戦いで初陣をかざり、その後の活躍により武田信玄からも一目置かれる存在となりました。武田信玄が亡くなり、武田勝頼が当主となると、武田家は強大になっていた織田家とその同盟国である徳川家と対峙することとなります。その中でも特に有名なのが教科書にも載っている長篠の戦いです。武田家が完敗したこの戦いで真田昌幸の兄が2人とも討たれてしまい、真田家の家督は真田昌幸が継ぐことになります。

武田家が織田家と徳川家から攻められ滅亡すると、これを機に独立します。織田家に従い領地を安堵されますが、1582年に本能寺の変が起こり織田家の庇護を受けられなくなります。甲斐、信濃は武田家を滅ぼして織田家が治めていたのですが、本能寺の変により空白地帯となってしまいます。周辺にはその空白地帯を奪おうとする三勢力が存在しました。越後の上杉、関東の北条、駿河(現在の静岡県)あたりを領地化していた徳川家です。真田昌幸の領地はその中心地帯にあったため、この三家に臣従、裏切りを繰り返し少し領土を拡大させていきます。時には徳川の7000の兵を上田城で2000の兵で退散させました。

その後、織田家のっとり中央を支配していた豊臣秀吉の軍門に下り、所領を安堵されました。豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが起こると、長男の真田 信幸が東軍、昌幸と真田幸村は西軍に分かれました。真田家を生き残らせるためにわざと分かれたとも言われています。真田昌幸は関ヶ原に向かう徳川秀忠率いる徳川家40000の本隊を僅か3000の兵で足止めします。これにより徳川本隊は関ヶ原に参戦できませんでした。しかし、戦いは東軍の勝利で終わってしまいました。昌幸は幸村とともに紀伊(現在の和歌山県)に幽閉され、そこで生涯を終えました。

真田昌幸は真田幸村の影に隠れがちですが、個人的には幸村より偉大な人物であると思います。「表裏比興の者」と言われた昌幸ですが真田家とその所領を守るためには最善の選択であったと思います。2016年の大河ドラマ「真田丸」では草刈雅雄さんが演じていましたが、頼りになる適当おじさんみたいな感じでとてもコミカルに描かれていました。長男の信幸も立派な方ですのでぜひ調べてみてください。

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