油絵のひみつ「油絵を描いてみましょう」

こんにちは。インターンの武井です。
前回までは、油絵を描くのに必要な道具についてお話ししました。
今回からは制作についてのお話です。

まずは、物を見てそれを描くのが練習にはいいと思います。身の回りにあるものでいいので、見えるように置いて描きます。
乾性油はリンシード、揮発性油はテレピンを使うとします。
油絵の制作手順に決まりはありません。大まかには、初めに一つの色だけで描いてから、後で物の色をつける方法と、初めから色をつかう方法があります。
今回はわかりやすく、色をつかいながら描くものとします。

描き始める前に、真っ白なキャンバスに薄く色をつけておくことをおすすめします。
キャンバスには編み目がありますから、色をつけていない部分が露出すると、そこは「白」ではなく、「キャンバス」のように見えてしまいます。
あらかじめ色をつけておくことで塗り残しをなくせますし、色をのせたとき、下からところどころ見える下塗りの色が全体の雰囲気をまとめる効果もあります。
テレピンで薄く溶いた絵の具で、ムラを気にせず画面全体に色をつけます。

画面が乾いたら、ざっくりと全体の形や位置を描きます。さきほどのようにテレピンで薄く溶いた絵の具が使いやすいです。
画面全体のバランスを考えて、描く物(モチーフといいます)をどのように配置するか、構図をだいたい決めていきます。
ここで細かく描写をする必要はありません。テレピンは絵の具を溶かしますから、テレピンだけでは細かく描きこむことができません。
その分、消しゴムのように描かれたものを消していくことができますから、だいたいの構図を試行錯誤するには向いています。

初めから構図を決めて描けるならこの工程は飛ばして構いません。
また、下塗りを行う前に鉛筆などで入念に構図をとっておくこともできます。その場合は、下塗りはテレピンのみでなく、リンシードをテレピンで溶いたもので行ってください。
テレピンのみですと下絵が溶けて見えなくなってしまいます。

だいたいの位置が取れたなら、リンシードをテレピンで薄めつつ、バーントアンバーなどの濃い色で全体に色をのせつつ、形を描いていきます。
明るい部分と暗い部分が分かるように描くとよいでしょう。輪郭線に拘りすぎず、遠くから見て明暗がわかりやすいようにすると後で
進めやすくなります。画面の中でどこが明るくどこが暗いか、雰囲気が決まってきます。
下塗りと同じく、色を使うことで後から深みが出てきます。
下塗りを兼ねて最初にこの作業をしてしまってもいいです。決まった手順はありません。

画面が半乾き、もしくは乾燥したら、色を使っていきます。
もちろん色から初めても構いません。色をのせる段階は次回にお話しします。

下絵の色は茶色でなくても、イエローオーカーとウルトラマリンで緑色を作って使っても描きやすいです。
あまり鮮やかな色でなければなんでも構いません。モチーフからなんとなく受ける印象や雰囲気でいいと思いますし、自然な感性に従って描く方が楽しい制作になるでしょう。

ご紹介する工程のなかで、ここが楽しいと感じる部分があれば、それだけを突き詰めてみてもいいと思います。
ぜひ、楽しいと感じる制作をしてください。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

油絵のひみつ「支持体について」

こんにちは。インターン生の武井です 今回は油絵の支持体についてのお話です。

前回まで、油絵を描くために必要な「油」と「油絵の具」についてご説明しました。しかし、これではまだ、制作するには足りません。絵を描くには、支持体、つまり用紙の類が必要です。

油絵の支持体といえばキャンバスですね。布を木の枠に張ったものです。キャンバスといえば油絵、とも言えるでしょう。
画材店ではノートサイズから大窓サイズまで様々な大きさのものが売られています。布と木枠は別々でも売られているので、木枠を自作したり、自前の布を張ったりすることもできます。
布には主に麻布が使われます。縦横についた織り目が特徴的で、乾性油によく耐えます。絵の具の乗りが薄い部分には織り目が透けて見え、これが油絵風の味にもなっています。
問題は少々値が張ることです。張り済みのキャンバスでは、大きな画用紙程のサイズでは千円程度はかかります。

ピンと張ったキャンバスは太鼓のように弾みます。この、画面の弾力や、布地の織り目を気にする人もいるでしょう。
油絵は板地に描くこともできます。木材の平らで硬質な描き味は一度試してみるとよいと思います。地塗り塗料で下地を作ると描きやすくなります。地塗りの表面を研磨紙でよく磨くと、非常に平滑な面を作ることが出来ます。
木板は、木枠に布張りのキャンバスと比べると当然重量がありますので、あまり大きなサイズの制作には不向きです。

習作にはダンボール紙も使えます。そこそこ頑丈で吸収性があり、ダンボール特有の縞状の目が案外楽しいものです。
大きなサイズでも軽く、形状を保ってくれるのは魅力です。

紙に描くことももちろん可能です。しかし、油との相性がよろしくありません。紙に油が浸み込む様子は容易に想像できますね。
油の量を少なくするとガザガザとして描き味が悪いですし、油が多くても吸われる量が多く、延びがよくありません。
紙に描く場合におすすめするのはオイルバーという画材です。
これは油絵の具を棒状に固めたもので、かなり柔らかい描き味です。
当然油分も含みますが、あまり問題なく、クレヨンのように描くことができます。
オイルバーは乾燥すると表面が膜状に固まります。描画した部分も時間を置くと乾燥して膜を作るので、紙にオイルバーで下絵を作ると、乾燥した表面で油絵の具が使いやすくなります。

支持体とは異なりますが、立体物の塗装にも油絵は使えます。
その際は、油絵の具が食いつきやすいように表面を仕上げておくといいです。
油が浸み込む余地があれば油絵の具は定着しやすいので、表面を研磨して細かなキメを作っておくか、ツヤ消しのスプレーを吹くなどしておくと、よく絵の具と手を結び、乾燥後も塗装部分が保たれます。

最後に、キャンバス上に硬質な描き味を求める方に、非常に簡単な地塗りをお教えします。
焼きセッコウを使います。安いもので構いません。これを油絵の具に混ぜて塗るだけです。
絵の具の色はなんでも使えますが、チタニウムホワイトが丈夫です。そのままでもいいですが、少し色を足してグレーめにすると後で描きやすいと思います。
色付きの画面が好きな方はその色を使ってください。絵の具とセッコウはだいたい1:1です。セッコウの方が少し多いくらいでも問題ありません。絵の具の節約にもなります。
そのままですと少し混ぜ辛いので、先に、画材店で売っている速乾メディウムをセッコウに混ぜて練っておくと、絵の具と混ぜやすくなりますし、あっという間に乾燥します。
絵の具と混ぜる前にセッコウのダマを潰しておく意味もあります。

パレットナイフを使って、メディウムと混ぜたセッコウと油絵の具をよく練り混ぜます。塗るときもこのナイフを使って平らに塗っていきます。
完全に平らにするのは難しいので、起伏ができても気にせずに塗ってしまいましょう。全体に塗れたら、気になる部分ををナイフでならしていきます。
このときも、ほどほどで大丈夫です。ナイフの跡が、後で薄く絵の具を乗せたときに浮かびあがり、全体にパターンが生まれます。
この起伏が、上に一様に色を塗った場合も、平坦な印象を打ち消し、多様な感じを生み出します。また、研磨紙を使えば平滑にすることもできます。
この地塗りをすると、キャンバスの布目は消えてしまいますが、変わりに、表面にセッコウの粒子状の模様が生まれます。
相当硬い塗料になるので、厚く盛ることも、粗めに混ぜてデコボコの表面を作ることもできます。地面のような効果も簡単に作リ出せます。
絵の要素に合う使い方をしてみてください。
注意点ですが、筆や刷毛の使用はおすすめしません。本当にあっという間に硬質化しますので、筆がダメになってしまいます。

何に描くか、どんな表面に描くかで、描き味はずいぶんと変わります。
したい表現に合った支持体を選ぶことが理想ですが、「試しに、これに描いてみよう。」と、遊んでみてもいいと思います。
その支持体の性質が画面に及ぼす効果から、表現のヒントが得られるかもしれませんよ。

以上、油絵に使う支持体についてのお話でした。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

油絵のひみつ「どの絵の具を使えばいい?」

こんにちは。インターン生の武井です。前回は油絵で使用する「油」についてのお話をさせていただきました。 今回は絵の具についてのお話です。

油絵を描くためには油が必要ですが、絵の具がなければ始まりません。画材店に買いに行きましょう。 さて、どの色を買えばいいでしょうか。
取り合えず赤から紫までの虹色を揃えて、黒と白があればいいという感じがしますね。絵の具セットはそのように構成されていると思います。
なんだ、迷うことはありませんね。では赤色から買っていきましょう。なになに、カドミウムレッドパープル、カドミウムレッドディープ、ブライトレッド、ピュアレッド、キナクリドン、アリザリン…。
どれにしましょうか…。画材店には、何社もの絵の具が、百色以上もズラリと並んでいるのです。お値段も変わります。
絵の具セットを買ってしまえばよさそうですが、高価な色が揃えられている場合が多いです。良い色であることには違いありませんが、必ずしも扱い易いわけではありませんし、お財布への負担も大きいでしょう。
メーカーには「安い方のセット」も用意されていると思いますが、こちらはおすすめしません。安いのは、安価な混ぜものの色で構成されているからで、使ううちに色の不純さに不満を覚えると思います。

では、どの色を選べばよいのか、具体的に紹介していきましょう。
まずはこの3色、(茶)PBr7  バーントシェンナ     濡れた土のような茶色
        (黄)PY43 イエローオーカー     乾いた地面のような黄色
        (青)PB29 ウルトラマリンブルー   深い海のような青色
これらの色に、 (白)PW6  チタニウムホワイト    があればよいでしょう。

これらは落ち着いた色ではありますが、基本的な3原色である「赤・青・黄」の組み合わせであり、混ぜて使うことで多くの色が生み出せます。
一見、鮮やかさが足りないように見えますが、画面に強力な色が必要でない限りは、この3色を使うことで調和のある雰囲気が絵に生まれるでしょう。

黒を加えてもよいですが、バーントシェンナとウルトラマリンを混ぜることで、透明感のある暗色を作り出せます。画面上で黒として働かせるにはこれで充分で、3色で作られた調和の中では単なる黒よりもよい働きをします。
黒を使うときは、余り白と混ざらないように気を付けてください。色に「黒と白を混ぜたグレー」の成分が含まれると、鈍くなって画面で浮いてしまうことがあります。
灰色を使いたいときは、3色を混ぜて彩度の低い色を作ってみてください。小さい頃、水彩絵の具の色を全部混ぜてみたことはありませんか?泥っぽい黒か灰色が出来たことと思います。
それは汚い色だ、と教えられたかもしれませんが、ある色の組み合わせで出来た世界の中では、純粋なグレーではない、色のついた灰色はむしろキレイに見えるもので、隣合う色を引き立てたり、色の調子を整えたりもしてくれる便利な色です。
私はこの色が大好きで、パレットの色を筆で拾う度にその灰色を混ぜています。私は彼を、色の調子はずれを整えてくれる指揮者のように思っています。

光の3原色は「赤・青・緑」です。上の3色では、青みはウルトラマリンブルーで強く出せますが、赤みと緑みは弱くしか出せません。
赤と緑を加えることで、上の3色で出来た世界を、より鮮やかな雰囲気にすることができます。

上記3色に、(緑)PG18 ビリジャン     深い、青寄りの緑
      (赤)PR254 ピロールレッド   原色より落ち着き気味の赤 を加えてみましょう。  
                                 
青色と黄色の混色では出せなかった、青緑色を使うことが可能になります。ビリジャンはやや高価ですが、これに代わる青緑色は他にないと思います。
合成色との違いがかなり大きいので、スクールセットを使っている方は、まずはビリジャンだけでもホンモノに替えてみてください。鮮やかさの差に驚かれると思います。
ピロールレッドは高い色ではありませんが、発色が良く、混色で肌色寄りにもワイン色寄りにも使えます。
ビリジャンとバーントシェンナを混ぜることで、新たな暗色も作り出せます。「暗い部分の色み」は、写真には無い深みを絵に与えます。パレットに出してある色を混ぜて作った暗色が、元の色を含む絵の中ではよい感じの暗部になると思います。

ほか、おすすめの色には(赤)PR101(102) テラローザやライトレッドもしくはインディアンレッドなどの酸化鉄系の赤色。サビの色と言うとイマイチなイメージですが、落ち着いた黄みの赤色です。
私が落ち着きのある色が好きなので、落ち着いた色ばかり紹介してしまいますが、

(茶)PBr7 バーントアンバー も持っていたい色です。焼いた茶色、という名前で、バーントシェンナより赤暗く、強い茶色です。
透明性があるので、乾いた画面の上に、乾性油を多めにしてこの色を薄く広げると、赤茶色のフィルターがかかって、絵の雰囲気が統一され、影が強まります。古典画のような強さが欲しい絵にはぴったりです。

紫色は総じて高価ですが、(紫)PV19 キナクリドンローズ は手が出しやすい色です。混色に使いやすい赤みの紫色です。
絵の中にビビッドな紫色をそのまま使いたい場合は、どうしても高級な紫色が必要です。混色では作り出せないからです。デザインポスターのような絵か、画題に含まれなければ、そうそう使うことはありませんので、自分のスタイルと相談してください。

高級セットには必ず入っている、いわゆる「良い色」を上げます。
(赤)PR108 カドミウムレッドパープル 深い赤色。
(赤)     バーミリオン 硫化水銀の朱色。”非常に”高価。
(青)PB28  コバルトブルー      キレイな青色。w〇ndowsのテーマカラーのようにかっこいい。
(青)PB35 セルリアンブルー     美しい空色。空をそのまま描きたい人は欲しい。
(黄)PY35  カドミウムイエロー    鮮やかな黄色。少し高いけれどビリジャンのように持っていたい。
(紫) コバルトバイオレット   上記の高級な紫色。支配者のローブのような非常にキレイな色。とても高価。あっても使わないので1本買えば充分。

これらの色は申し分なく良い色ですが、絵の中ではほとんどの場合、単色の美しさよりも全体のバランスの方が見た目に関わります。
「良い色」を絵にそのまま使いたい場合は、同じくらい良い色で雰囲気を作るか、もしくは最高にキレイな色をリーダーに据えて、画面を従わせてください。
「受け入れ体制」を作って上げましょう。
また、カドミウムやコバルト系の色、バーミリオンなど高価な色は大抵有毒です。過敏にならなくても大丈夫ですが、使用後は手を洗いましょう。噴霧はしないように。

黒について。
代表的なものは(黒)PBk7 アイボリーブラック と(黒)PBk1 ピーチブラック です。 
少量を薄く伸ばしてみるとわかりますが、アイボリーは暖かみがあり、ピーチは寒い黒です。好みで選んでください。

白について。
PW6 チタニウムホワイトが主流です。とても強い白色で、下の色をよく隠しますし、塗った後は頑丈です。迷ったらこの白です。
PW4 ジンクホワイトは透明度のある白色です。下の色を隠すのには向きませんが、薄い白を重ねたり、わずかに白を混ぜたりしたいときはその繊細な性質が役に立ちます。
    乾燥後は塗膜の強度が低いと言われますが、ベタ載せしない限りは問題ないと思います。白を盛りたいときはチタニウムを使うとよいでしょう。
    2色を混ぜてみて、自分の使いやすい強さの白色を作るのも可能です。

では、油絵の具は、まずはどの色を選べばよいか。まとめますと、

確実な三色  (茶)PBr7   バーントシェンナ     
       (黄)PY43  イエローオーカー     
       (青)PB29  ウルトラマリンブルー
+色を補強   (緑)PG18  ビリジャン        
(赤)PR254 ピロールレッド
       (黄)PY35  カドミウムイエロー
あると便利な (茶)PBr7  バーントアンバー
(紫)PV19  キナクリドンローズ
白が必要   (白)PW6  チタニウムホワイト
黒も欲しい  (黒)PBk7  アイボリーブラック

ちょうど10色程度ですね。上記ですと赤・青・緑・黄2・茶2・紫・白・黒 となります。ビリジャンとカドミウムイエローは値段が高めですが、よく使う絵の具です。それ以外は、キナクリドンを除いておそらく全てのメーカーで1、2番目に安いランクの色ですので、お財布にも優しいと思います。
キナクリドンは少し高い部類です。

まずはこれらの色で描いてみてください。際立った色が無いので、バランスは取りやすいはずです。高彩度の色が必要になったら買い足してください。
ちなみに、「赤・青・黄」の3色では多くの色が作り出せますが、最も多くの色を作り出せる3色の絵の具の組み合わせは、おそらく、フタロシアン・キナクリドンマゼンタ・カドミウムイエロー の3色に白と黒を加えたものだと思います。これらは印刷のインクに使われるCMYK(シアン・マゼンタ・イエロー・ブラック)カラーに対応しており、最も高彩度の絵の具だと思います。しかし、よく使う赤、青、緑を混ぜて作らなければなりません。色を直観的に使えないのは難しそうです。試したことはありません。

最後に、絵の具の名前の頭につけておりました、PB29 などの番号についてご説明します。
これは、その絵の具がどんな色(成分)でできているか、を示しています。Pはピグメント(顔料)の意味、BやYなどはブルーやイエローなど色の区分です。その色の顔料の種類に番号を振って区別しています。
多くのメーカーが絵の具のラベルにこの番号を記載しているので、異なるメーカーの同名色を見分ける助けになります。メーカーによって同番号でも色の違いはありますが、混合色についてはおよその予測ができます。
何色と何色でできた混合色かがわかれば、手持ちにそれらの色がある場合は購入しなくてもよいかもしれません。ただし、メーカーによって最善の比率で混ぜられているでしょうから、その色が頻繁に必要な場合は混合色を信頼するといいでしょう。
例えば、「カドミウムグリーン」という絵の具にはPY35,PG18と記載されています。これはカドミウム黄とビリジャンで作られていることを示します。
「ジョンブリアン」という肌色の絵の具はPW4ジンクホワイト、PY35カドミウムイエロー、PR108カドミウムレッドの混合色です。
メーカーによって違いの大きい「バンダイクブラウン」は、PR101酸化鉄の赤色であったり、PBr7+PBk7と、茶色と黒を合わせたものであったりします。

実際に多くのメーカーの色を買って試すことができれば手っ取り早いですが、購入に迷ったときは顔料の表示を参考にしてみてください。

これまでにおすすめしました色は、ポスターのように鮮烈な色が欲しい方には物足りないと思いますが、コントロールのしやすい組み合わせです。
また、全体的に低彩度ですので、足りないと感じた色を足すときには、その色が際立つようになっています。
油絵の具は安くはありませんので、不足を感じたら徐々に足していくのがよいと思います。
また、チューブから出したままの色を画面に乗せることは、ほぼありません。赤なら赤い絵の具、緑なら緑の絵の具、という考えは一旦置いてください。
そして、ある絵の具を混ぜ合わせた色の範囲の中で、赤や緑といった色を「感じる」画面作りをしてみてください。そのときはきっと、全体の雰囲気の調和が出来ているはずです。

以上、油絵の具の選び方についてのお話でした。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

油絵のひみつ「油を使って絵を描く?」

初めまして。インターン生の武井です。今回から10回に渡って、油絵制作に関するお話をしていきます。

油絵はその名の通り油を使って描く絵です。誰もが一度は、筆に水を含ませて描く水彩絵の具を使ったことがあると思います。油絵ではちょうどそのように油に筆をつけると思ってください。
「油」と聞いて、台所にあるサラダ油を思い浮かべた方はいらっしゃいますか? 私も初めはオリーブオイルで描けるのかと思ったものですが、料理には料理用の、絵には絵に使う油があるのです。
油絵を描くのに用いる油は「乾性油」と言います。これも読んで字のごとく、乾燥する性質のある油ということですね。この油で色のついた粉を練って作った絵の具が油絵の具です。
今思いついたのですが、調理油と食材を用いて、なんだか香ばしい匂いがして、食べることの可能なアートといったものが作れるかもしれません。お子様のお弁当にどうですか。

閑話休題、乾性油にも種類があり、主なものは「リンシードオイル」、「ポピーオイル」の2つです。

「リンシードオイル」は、油絵に使うものでは最もスタンダードなオイルです。その成分はズバリ、近年、美容の世界で注目されている亜麻の油、亜麻仁油です。
食品売り場で見たことがありますか?お高いですよね。それを油絵では、前述の通り水のように使っていきますよ! 注意:画用に作られているものは健康に良さそうだからって飲んじゃだめです。だめですよ?
「ポピーオイル」はケシの油でできています。強い黄色のリンシードオイルよりもやや澄んだ、控えめな黄色をしています。その性質も少し控えめで、乾燥する速度がやや遅く、乾いた部分の強度がリンシードよりやや劣ります。
白い絵の具をキレイに使いたい場合や、仕上げの段階で使うとよいでしょう。また、リンシードオイルではなんとなく早く乾きすぎると感じる人は、こちらのポピーオイルを使ってみてください。

油絵に使う油にもうひとつ、「揮発性油」というものがあります。これはネバネバした乾性油のうすめ液として使います。常温で置いておくとじゃんじゃん気化してしまう性質があり、要するにシンナーですね。
この揮発性油も主なものは2つです。「テレピン油」と「ペトロール」です。

「テレピン」はマツ科の樹木から得られる脂で作られます。こちらの方がペトロールよりもスタンダードですね。オイルの入ったビンを開けると芳醇なマツの香りが……。
冗談です。いけませんよ。換気はしっかりと行ってください。実際は匂いがツーンときつくて嗅いでいられません。
「ペトロール」は石油から作られます。テレピンよりも揮発速度が穏やか、匂いも穏やかなので、テレピンが臭くて敵わん!という方、使ってみてください。
(とは言ってみますが、すみません。私はペトロールを使ったことがないのですよ。どんな匂いがするんでしょうね?)

乾性油について「水のように」と申しましたが、実際には、水彩における水のような使い方をするのはこちらの揮発性油の方です。
油絵の具や乾性油を薄く溶かす性質がありまして、これをたっぷり用いて絵の具をバシャバシャに溶けば、水彩画や水墨画のような効果も狙えます。
注意しなければならないのは、この「溶かす」という効果で、既に画面に描かれている絵も溶かしてしまいます。
その水のような使いやすさから、初心者は頼りがちになってしまう揮発性油ですが、一度は乾性油のみで描いてみることをおススメします。
その際は、チューブから出した油絵の具に、乾性油をポタっと垂らして、「濃いソース」ぐらいの軟らかさに練っておくと使いやすいです。
「溶かす」性質の揮発性油では得られない、「延びる」という感覚は油絵の具の醍醐味です。
この「延びる」性質を実感できないままに、「なんか油絵の具ってガサガサしてて使いづらいなー」と思っている方、いらっしゃいませんか?
乾性油を使ってみてください。乾性油を混ぜることで、濃度も伸びも自在となる油絵の具は、時に絵の具が躍るように大胆に、時に絹の目のように繊細な描画が可能で、数ある絵の具のなかでも特に豊かな表情を見せてくれます。

最後に、お手入れの際に用いる油について。
筆などの道具のお手入れには、私は「灯油」を使います。そう。ストーブやファンヒーターの燃料とする灯油です。
一般的には画材店で手に入る専用の洗浄液「筆洗油」を用いますが、成分は似たようなものなので問題ないと思います。灯油臭いですけどね。
絵の具を溶かす性質があればよいので、ペトロールを使うのもよいでしょう。制作中に筆を洗っても、洗浄用の油が混ざらないので安心ですね。

制作後の筆のお手入れは確実に行ってください。乾性油の「乾く性質」はバカになりません。
うっかり洗わないで放置してしまうと、メタルバンドのトゲトゲ頭のように固まってしまいます。
筆先を洗うのはもちろんですが、根本は特に入念に洗浄してください。筆に乾性油を残さないように。

以上、油絵に使う油についてのお話でした。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

過去の賢者達 ゴヤ編

どうもインターン生の坂本です。
今回はゴヤを紹介していきたいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1746年、スペインのフエンデトードスに生まれました。父親は鍍金師であり、芸術を愛好する気風の中で育ちました。
14歳の時から約4年間、サラゴサで地元の画家のもとで絵画の修行をします。
この間、のちにゴヤの義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バエウ、その弟ラモーン・バエウに出会います。
1763年と1766年の2回、サン・フェルナンド王立アカデミーに出品しましたが落選してしまいます。
そしてその4年後、大画家を目指してイタリアのローマに行き、イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学びました。
1771年ゴヤはスペインに帰国しました。

そして27歳の時、バエウの妹ホセーファと結婚します。
1774年、バエウの手引きでマドリードへ出て、1775年から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わるようになります。
1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となります。
しかし、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤは、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。
今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『巨人』などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものだったそうです。

1812年ゴヤの妻が亡くなってしまいますが、1815年、ゴヤは、40歳以上も年下のレオカディア・バイスというの家政婦と同棲します。
1819年にゴヤはマドリード郊外に「聾者の家」と通称される別荘を購入しまし制作を続けました。
その後当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命し、ボルドーで暮らすようになりますが、1828年ゴヤは亡命先のボルドーにおいて波乱に満ちた生涯を閉じました。

自分の最盛期に不治の病にかかったり妻がなくなったりしても絵を描き続けた姿勢はすばらしいなと思いました。

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過去の賢者達 モーツァルト編

どうもインターン生の坂本です。
今回はモーツァルトについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介したいと思います。

1756年1月27日ザルツブルクに生まれます。
父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えたそうです。
モーツァルトは3歳のときから チェンバロを弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行っていたそうです。

父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行いました。

これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためでしたが、どこの宮廷でも就職活動に失敗してしまいます。
1769年から1771年にかけて、第1回目のイタリア旅行を行い、父と共にミラノ、ボローニャ、ローマを巡回します。その時モーツァルトはほとんどの音楽教育を受けました。

1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与されます。
また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員にも選出され順調なように見えますが稼ぎは少なかったそうです。

マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画をたてるが、父親は猛然と反対し、1778年 2月にはパリ行きを命じます。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎも良くなかったそうです。

1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚します。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が多くなります。

ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に怖れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする憶説もあるそうです。

9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール「 魔笛」を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用しており、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後にウィーンで死去した。

モーツァルトの死後、聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていないそうです。
作品総数は断片も含め900曲以上に及びさまざまなジャンルのものだったそうです。

若い頃から認められはしていたけれど恋愛関係の不幸や稼ぎには恵まれず苦しい生活を送っていたモーツァルトですが35歳でなくなったにもかかわらずその膨大な作品数を見るに作曲への情熱を感じました。
そのように情熱をもち物事に打ち込んでいきたいと思いました。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

過去の賢者達 シューベルト編

どうもインターン生の坂本です。
今回はシューベルトについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介します。

シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。
父はアマチュア音楽家で、5歳の時父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学しました。この頃、父はシューベルトにヴァイオリンの初歩を教え始めました。
7歳頃になると父親の手に余るほどの神童振りを発揮し始めたため、父親はシューベルトをリヒテンタール教会の聖歌隊に預けることにしたそうです。

1808年シューベルトはコンヴィクトという学校の奨学金を得ました。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていました。
ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属しました。献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてシューベルトを助けていました。
そこで作曲を始め1810年から1813年に多くの楽曲を作成しました。
1813年の終りにシューベルトは変声期によりコンヴィクトを去り、兵役を避けるために、父の学校に初級生のための教師として入職しました。

1816年コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショーバーがシューベルトを訪問して、学校での教師生活を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトは音楽監督に志願したが不採用になったばかりで不満がたまっていたので決断し、シューベルトはショーバーの客人となりました。

しかしこの時教師をやめたし、公演で稼ぐことも出来なかった為シューベルトは貧乏でした。
しかし、友人達は宿や食料を与えたり、金を持っている者は楽譜の代金を支払った。

1825年ついにシューベルトに幸福が訪れます。出版は急速に進められ金銭的問題はなくなりました。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をしました。旅行中に、「ノルマンの歌 」、「囚われし狩人の歌」や「ピアノソナタ イ短調」を作曲、歌ではこれまでの作曲で得た最高額の収入を得ました。

1826年から1828年にかけてずっとウィーンに留まりましたがその間、たびたび体調不良に襲われます。

その後シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、と病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、1828年に兄フェルディナントの家で死去した。

シューベルトは決して良い生活を送ってきたわけではなく本来ならまともに音楽活動をできるような状態ではなかったのですが、友人の助けにより苦難を超えてこれたと思うので人間関係は大事だと感じました。

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過去の賢者達 リスト編

どうもインターン生の坂本です。
今回はフランツ・リストという音楽家を紹介したいと思います。

リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなしたという逸話があるほどの技巧派ピアニストですね。

その技巧と音楽性から「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていたらしいですw
彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われているそうですね。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1811年10月22日にオーストリアで生まれました。

父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていました。
リストは、1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事します。

1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしましたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否されました。

1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えていくようになります。
教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となってしまいます。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残っています。また多くの女性と恋愛関係を結んでいました。
特に、マリー・ダグー伯爵夫人と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送ります。2人の間には3人の子供が産まれました。
リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられていました。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在しています。
そして1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなりました。

ここまでやって思うのは芸術家の人は若いうちに親をなくしている人が多いですね。
ピアノで生計をたてるには技術が必須になってくるので必死に練習し苦難を乗り越えたんだと思いましたね

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過去の賢者達 ユトリロ編

どうもインターン生の坂本です。
今回はモーリス・ユトリロです。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1883年12月26日パリで生まれました。彼が生まれた時母親はすでに既に画家として活動していた為、ユトリロの世話は祖母に任せていた。ちなみに父親が誰かはわからないそうです。しかし祖母は酒好きでこのころからユトリロは飲酒していたそうです。

ユトリロが2歳の時癲癇(てんかん)という神経疾患の発作に見舞われ、その後も後遺症が残ったそうです。ちなみにユトリロは最初は「モーリス・ヴァラドン」という名前でしたが、7歳の時スペイン人ジャーナリストの「ミゲル・ユトリロ・イ・モルリウス」がモーリスを自分の息子として認知した為、「モーリス・ヴァラドン」から「モーリス・ユトリロ」と改名しました。
ユトリロが8歳のとき母親は息子を精神病のため病院へ連れて行きます。

1894年半ばから母親は布地商であるポール・ムジスと同棲し結婚します。

ユトリロは中学校に入学し、優秀な成績を収めていたが、問題を多々起こし中学を退学します。
1900年から色々な仕事をするがユトリロの性格の問題とアルコール依存の影響で暴力が増え引っ越さなくてはならなくなります。
1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街に引っ越します。この頃から水彩画を描く練習を始めたそうです。

1904年ポール・ムジスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院します。そして5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、絵を描き始め画家になることを決意したそうです。
1909年翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れます。

1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会でした。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋でした。
またこの時期母親は離婚します。

そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することになります。一時期ユトリロは石膏採掘場に労働に行ったが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になります。
また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとしました。そしてモンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。

1910年に「ノルヴァン通り」という絵が描かれました。明らかに白が強調されている絵でした。ここから「白の時代」と言われユトリロの絶頂期となります。

1912年にユトリロの絵画の価値が急上昇します。
1913年ユトリロ最初の個展を開催しました。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を展示しましたが、この展示会は失敗しました。
しかし、1919年12月に再び個展を開きこれは大成功します。

1921年には、母バラドン、と共に個展を開くなど裕福な環境におかれますが、軽犯罪を起こし刑務所に収監されます。
息子を出所させるため身元を引き取りにいくとユトリロを釈放するには刑務所での生活と同じような生活になる条件を母親にだされます。
例えば金銭を渡さない、責任を持って監視する、行動を把握するなど

その後ユトリロには城が買い与えられそこで生活を送るようになりました。

1933年ユトリロは入信します。その後彼が描く絵は色彩豊かになっていきます。

そして1935年ベルギーの企業家の未亡人と結婚します。この出来事はユトリロ自信大変喜んでいたそうです。
しかし1938年、母シュザンヌが亡くなりました。モーリスはあまりのショックで母の葬儀に
参列することが出来なかったそうです。

その後1955年、モンマルトルに移住します
またこの年、モーリス・ユトリロはパリ名誉市民となりました。
しかし、11月5日、旅先のホテルで肺充血により亡くなりました。

波乱万丈な人生を歩み色々な事件を起こし多くの人から嫌われていたユトリロですが、自分のやるべきことをやり続け極めたことにより最後は多くの人に認められ歴史に名を刻むまでになったその人生はこれから先自分の進むべき道が分からなくなったときの指標になると思いました。

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過去の賢者達 ゴーギャン編

どうもインターン生の坂本です。
今回は、ゴーギャンについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1848年6月7日にパリで生まれました。この年は「2月革命」が起こった年です。ちなみに2月革命とはフランスで起こった革命です。
1851年ナポレオン3世のクーデターにより父親職を失ってしまいます。そして家族でペルーに向かうのですが航海中に父親が急死してしまいます。
そのため、残された家族は祖父を頼り過ごしていました。ゴーギャンが7歳の時父方の祖父を頼りオルレアンで生活するようになりました。オルレアンで生活するうちにゴーギャンはフランス語を身につけました。

ゴーギャンが13歳の時、パリの海軍予備校に入学しようとするが、受験に失敗します。それなので商船見習いになり世界の海をめぐるようになりますが、1867年母親が亡くなります。しかし、ゴーギャンには亡くなったことはすぐには知らされず、数ヶ月後インドで、姉からの知らせで知ります。
 
 1868年から2年間フランス海軍に入隊し、その後株式仲買人として働き、実業家として成功し、また絵画取引でも成功しました。その株式仲買人としての仕事を始めたころからゴーギャンは暇を見つけては絵を描くようになりました。

1873年ゴーギャンはデンマーク女性と結婚します。そして5人の子供を授かります。
株式仲買人としての仕事を始めたころからゴーギャンは暇を見つけては絵を描くようになりました。またその時期にカミュー・ピサロと知り合い一緒に活動するようになったり、ピサロを通じて色々な画家と交流を持つようになりました。その後印象派展に絵をだすなどの活動をしました。

1882年パリの株式市場が大暴落し、また、ゴーギャンから絵を買い入れていた顧客も恐慌の影響を受け買い付けを停止したのでゴーギャンの収入は急減しました。その後ゴーギャンは絵画を本業とすることを考え始めます。

その後も、住まいを移し新しい事業を始めるなどの生活の建て直しを図りますが、失敗し、1885年息子をつれパリに戻り妻や知人の助けにより生活していました。画家として生計を建てようとしますが、困窮して雇われ仕事などをしていました。

1886年に最後の印象派展となった第8回展に出品しました。それには当初の印象派メンバーは出品しておらず、若き画家たちが多く出品しました

この時より新たな時代の「後期印象派」が始まったと言われます。ゴーギャンも独自の表現を求めて活動する時期が始まりました。
このころフィンセント・ファン・ゴッホと出会います。そしてゴッホと共同生活を送るなどゴーギャンにとって刺激的な時期だと思います。しかし、次第にゴッホとの関係性が悪化し9週間で共同生活は終わったという。
ちなみにゴーギャンの回想によればゴッホが剃刀をもって襲ってきたという出来事がありその晩ゴッホは左耳を失ったそうです。
その後二人は文通だけの関係になり会うことはなかったそうです。

1891年から本格的にタヒチに渡り精力的に活動を始めました。独自の表現を追及する中で、「野生」と「情熱」という表現したい明確な対象が出来たことで南国への憧れが強くなっていました。
同年2月には旅行費を稼ぐ為に自身の作品を競売にかけてたそうです。その2ヶ月旅立ち、6月にタヒチに到着しました。一年間滞在し、帰国後パリでタチヒで制作した作品を展示しました。

1894年頃妻との破局が決定的になり破局しました。
1895年再びタヒチに向かうべく、2月に47点の作品を競売にかけ旅行費を工面しようとしました。
しかし、売れたのは9点のみであった。
ゴーギャンは失意の中でタヒチに旅立ち、9月にパペーナに到着した。
タヒチで出会ったパウラという14歳の少女と同棲を始め、妻にし男の子と女の子が出来るが、女の子の方はすぐに亡くなってしまいました。
また、その翌年には長女アリーヌの死の知らせを聞き、立て続けの不幸により体調が悪化しました。
この精神的、肉体的な苦痛を作品にぶつけた「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか」を12月に制作した。この頃、砒素を飲んで自殺を図っていることから「我々はどこから来たのか・・・」はゴーギャンの遺書的な作品であるとされている。

1901年9月にタヒチを離れマルケサス諸島のヒバ・オア島に住み始めました。ここで新たな家を建て、自身の芸術を最終段階まで完成させる為に活動を続けていた。またここでもゴーギャンは現地の14歳の少女を妻とし子供を一人授かりました。

その後、島の国家憲兵や部下の汚職や無能力を告発しようとしたが名誉棄損で禁固刑と罰金を宣告されるなど苦悩の日々は続いていきまた、体調がどんどん悪化していきました。
禁固刑が宣言された1903年3月に控訴の準備を始めていたが、その2か月後の5月8日に突然倒れそのまま死去した。54歳であった。

ゴーギャンの死亡の知らせは1903年8月23日までフランスに届くことなく、財産などは9月5日の競売にかけられ処分された事で、ゴーギャンの晩年の記録が失われてしまったと言われています。

若いときに成功と挫折を経験しさまざまな人生経験を得たゴーギャンは成功を知っていたからこそ返り咲きたい気持ちが強かったと思いますし、苦難を抜けるため絵画に打ち込み続け、自分へプラスになると思ったらどこへでもいくゴーギャンのその行動力が成功へつながったのかなと考えました。

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