過去の賢者達 ユトリロ編

どうもインターン生の坂本です。
今回はモーリス・ユトリロです。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1883年12月26日パリで生まれました。彼が生まれた時母親はすでに既に画家として活動していた為、ユトリロの世話は祖母に任せていた。ちなみに父親が誰かはわからないそうです。しかし祖母は酒好きでこのころからユトリロは飲酒していたそうです。

ユトリロが2歳の時癲癇(てんかん)という神経疾患の発作に見舞われ、その後も後遺症が残ったそうです。ちなみにユトリロは最初は「モーリス・ヴァラドン」という名前でしたが、7歳の時スペイン人ジャーナリストの「ミゲル・ユトリロ・イ・モルリウス」がモーリスを自分の息子として認知した為、「モーリス・ヴァラドン」から「モーリス・ユトリロ」と改名しました。
ユトリロが8歳のとき母親は息子を精神病のため病院へ連れて行きます。

1894年半ばから母親は布地商であるポール・ムジスと同棲し結婚します。

ユトリロは中学校に入学し、優秀な成績を収めていたが、問題を多々起こし中学を退学します。
1900年から色々な仕事をするがユトリロの性格の問題とアルコール依存の影響で暴力が増え引っ越さなくてはならなくなります。
1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街に引っ越します。この頃から水彩画を描く練習を始めたそうです。

1904年ポール・ムジスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院します。そして5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、絵を描き始め画家になることを決意したそうです。
1909年翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れます。

1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会でした。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋でした。
またこの時期母親は離婚します。

そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することになります。一時期ユトリロは石膏採掘場に労働に行ったが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になります。
また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとしました。そしてモンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。

1910年に「ノルヴァン通り」という絵が描かれました。明らかに白が強調されている絵でした。ここから「白の時代」と言われユトリロの絶頂期となります。

1912年にユトリロの絵画の価値が急上昇します。
1913年ユトリロ最初の個展を開催しました。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を展示しましたが、この展示会は失敗しました。
しかし、1919年12月に再び個展を開きこれは大成功します。

1921年には、母バラドン、と共に個展を開くなど裕福な環境におかれますが、軽犯罪を起こし刑務所に収監されます。
息子を出所させるため身元を引き取りにいくとユトリロを釈放するには刑務所での生活と同じような生活になる条件を母親にだされます。
例えば金銭を渡さない、責任を持って監視する、行動を把握するなど

その後ユトリロには城が買い与えられそこで生活を送るようになりました。

1933年ユトリロは入信します。その後彼が描く絵は色彩豊かになっていきます。

そして1935年ベルギーの企業家の未亡人と結婚します。この出来事はユトリロ自信大変喜んでいたそうです。
しかし1938年、母シュザンヌが亡くなりました。モーリスはあまりのショックで母の葬儀に
参列することが出来なかったそうです。

その後1955年、モンマルトルに移住します
またこの年、モーリス・ユトリロはパリ名誉市民となりました。
しかし、11月5日、旅先のホテルで肺充血により亡くなりました。

波乱万丈な人生を歩み色々な事件を起こし多くの人から嫌われていたユトリロですが、自分のやるべきことをやり続け極めたことにより最後は多くの人に認められ歴史に名を刻むまでになったその人生はこれから先自分の進むべき道が分からなくなったときの指標になると思いました。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

過去の賢者達 ゴーギャン編

どうもインターン生の坂本です。
今回は、ゴーギャンについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1848年6月7日にパリで生まれました。この年は「2月革命」が起こった年です。ちなみに2月革命とはフランスで起こった革命です。
1851年ナポレオン3世のクーデターにより父親職を失ってしまいます。そして家族でペルーに向かうのですが航海中に父親が急死してしまいます。
そのため、残された家族は祖父を頼り過ごしていました。ゴーギャンが7歳の時父方の祖父を頼りオルレアンで生活するようになりました。オルレアンで生活するうちにゴーギャンはフランス語を身につけました。

ゴーギャンが13歳の時、パリの海軍予備校に入学しようとするが、受験に失敗します。それなので商船見習いになり世界の海をめぐるようになりますが、1867年母親が亡くなります。しかし、ゴーギャンには亡くなったことはすぐには知らされず、数ヶ月後インドで、姉からの知らせで知ります。
 
 1868年から2年間フランス海軍に入隊し、その後株式仲買人として働き、実業家として成功し、また絵画取引でも成功しました。その株式仲買人としての仕事を始めたころからゴーギャンは暇を見つけては絵を描くようになりました。

1873年ゴーギャンはデンマーク女性と結婚します。そして5人の子供を授かります。
株式仲買人としての仕事を始めたころからゴーギャンは暇を見つけては絵を描くようになりました。またその時期にカミュー・ピサロと知り合い一緒に活動するようになったり、ピサロを通じて色々な画家と交流を持つようになりました。その後印象派展に絵をだすなどの活動をしました。

1882年パリの株式市場が大暴落し、また、ゴーギャンから絵を買い入れていた顧客も恐慌の影響を受け買い付けを停止したのでゴーギャンの収入は急減しました。その後ゴーギャンは絵画を本業とすることを考え始めます。

その後も、住まいを移し新しい事業を始めるなどの生活の建て直しを図りますが、失敗し、1885年息子をつれパリに戻り妻や知人の助けにより生活していました。画家として生計を建てようとしますが、困窮して雇われ仕事などをしていました。

1886年に最後の印象派展となった第8回展に出品しました。それには当初の印象派メンバーは出品しておらず、若き画家たちが多く出品しました

この時より新たな時代の「後期印象派」が始まったと言われます。ゴーギャンも独自の表現を求めて活動する時期が始まりました。
このころフィンセント・ファン・ゴッホと出会います。そしてゴッホと共同生活を送るなどゴーギャンにとって刺激的な時期だと思います。しかし、次第にゴッホとの関係性が悪化し9週間で共同生活は終わったという。
ちなみにゴーギャンの回想によればゴッホが剃刀をもって襲ってきたという出来事がありその晩ゴッホは左耳を失ったそうです。
その後二人は文通だけの関係になり会うことはなかったそうです。

1891年から本格的にタヒチに渡り精力的に活動を始めました。独自の表現を追及する中で、「野生」と「情熱」という表現したい明確な対象が出来たことで南国への憧れが強くなっていました。
同年2月には旅行費を稼ぐ為に自身の作品を競売にかけてたそうです。その2ヶ月旅立ち、6月にタヒチに到着しました。一年間滞在し、帰国後パリでタチヒで制作した作品を展示しました。

1894年頃妻との破局が決定的になり破局しました。
1895年再びタヒチに向かうべく、2月に47点の作品を競売にかけ旅行費を工面しようとしました。
しかし、売れたのは9点のみであった。
ゴーギャンは失意の中でタヒチに旅立ち、9月にパペーナに到着した。
タヒチで出会ったパウラという14歳の少女と同棲を始め、妻にし男の子と女の子が出来るが、女の子の方はすぐに亡くなってしまいました。
また、その翌年には長女アリーヌの死の知らせを聞き、立て続けの不幸により体調が悪化しました。
この精神的、肉体的な苦痛を作品にぶつけた「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか」を12月に制作した。この頃、砒素を飲んで自殺を図っていることから「我々はどこから来たのか・・・」はゴーギャンの遺書的な作品であるとされている。

1901年9月にタヒチを離れマルケサス諸島のヒバ・オア島に住み始めました。ここで新たな家を建て、自身の芸術を最終段階まで完成させる為に活動を続けていた。またここでもゴーギャンは現地の14歳の少女を妻とし子供を一人授かりました。

その後、島の国家憲兵や部下の汚職や無能力を告発しようとしたが名誉棄損で禁固刑と罰金を宣告されるなど苦悩の日々は続いていきまた、体調がどんどん悪化していきました。
禁固刑が宣言された1903年3月に控訴の準備を始めていたが、その2か月後の5月8日に突然倒れそのまま死去した。54歳であった。

ゴーギャンの死亡の知らせは1903年8月23日までフランスに届くことなく、財産などは9月5日の競売にかけられ処分された事で、ゴーギャンの晩年の記録が失われてしまったと言われています。

若いときに成功と挫折を経験しさまざまな人生経験を得たゴーギャンは成功を知っていたからこそ返り咲きたい気持ちが強かったと思いますし、苦難を抜けるため絵画に打ち込み続け、自分へプラスになると思ったらどこへでもいくゴーギャンのその行動力が成功へつながったのかなと考えました。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

過去の賢者達 ロートレック編

どうもインターン生の坂本です。
今回はフランスの画家のアンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介したいと思います。

ロートレックは1864年アルビで生まれました。ロートレックの家はフランスの名家であったそうです。
ロートレックが8歳の時両親の不仲により母親と共にパリに住むようになります。そこで彼は絵を描き始めます。その絵を見た母親はロートレックに才能があると思い父親の友人の画家に紹介しレッスンを受けるようになります。

しかし、13歳の時客間で転倒し左足の大腿骨を骨折。14歳に散歩中に中溝に落ち右足の大腿骨を骨折してしまいす。そのせいで成人しても胴体は正常だが脚は子供のままになり身長152cmに過ぎなかった。病気によりアルビに戻ったが、父親には疎まれ寂しい青春を送った。そのときロートレックは自分の存在意義を示す為絵に没頭したそうです。

1882年ロートレックはパリに出て画塾で絵を学びます。そして彼が24歳の時ブリュッセルの20人展に出展します。またその翌年にはロートレック展を開きました。
そして27歳「ムーラン・ルージュ」を制作します。その後制作と旅で多忙な日々を過ごすようになります。

1897年フロショ通りに新しいアトリエを構えました。その時からポスターの制作を辞めて、石版画に熱中するようになります。

しかし、このころからロートレックの飲酒が深くなっていきました。その後彼はアルコール中毒が原因で発作を起こします。彼を治療する為に彼の母親は彼を拉致し、精神病院に入れました。自分が正常であることをアピールし退院したいロートレックは、入院中記憶で「サーカス」を制作し見事退院します。

しかし、退院後再び飲酒をはじめ1901年ついに脳出血により死亡してしまった。
彼の最後の言葉は「馬鹿な年寄りめ」という父親へ対しての言葉だったそうです。

最後の言葉から考えるに、ロートレックは最後の最後まで父親に認めてもらいたかったのかなと思いました。

彼のように自分の存在意義を示す為や、父親に認めてもらうために一つのことに熱中して身体的ハンディーキャップなどを跳ね返すような気概は見習わなくてはならないなと思いました。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

過去賢者達 フリーダ編 記事 過去の賢者達

どうもインターン生の坂本です。
今回はフリーダ・カーロというメキシコの女性画家を紹介したいと思います。

彼女はメキシコの有名な画家ですね。

それでは簡単な来歴を紹介したいと思います。

フリーダは1907年7月6日メキシコシティの近郊にあるコヨアカンに生まれます。
普通の生活をしていたのですがメキシコ革命の勃発により生活が厳しくなります。そしてフリーダが6歳の時、急性灰白隨炎というウイルス感染症にかかり9か月寝たきりの生活を送っていました。この影響で右腿から踝にかけて成長が止まりやせ細ってしまい、それをよくするため、色々なスポーツをしたが元に戻ることはなかったそうです。

そんな彼女をリハビリを兼ねて父親は良くハイキングに連れていき、父親の趣味であった水彩画やカメラをフリーダに教えていたそうです。その後メキシコの最高教育機関の国立予科高等学校へ進学し、父親の友人の広告デザイナーにスケッチを習い画家を目指すようになりました。
 しかし、1925年9月、バスでの通学中路面電車とバスが衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生しました。
フリーダも生死をさまよう重症で、3か月の間ベッドから動けませんでした。その痛みと暇を忘れるために本格的な絵を描くようになったそうです。

1928年フリーダはメキシコ共産党へ入党します。そこで夫となるディエゴ・リベラと出会います。そこでお互いに作品を見せ合い互いに感銘をうけた二人は結婚します。しかし、フリーダは2度妊娠しますが事故の影響で2度とも流産します。また、夫のリベラが妹のクリスティナと関係を持ち大きな心理的負担をもちます。

ちなみにこの年に発表した「ちょっとした刺し傷」はこのときの感情がでて、グロいですねw

1938年大規模な個展を海外で開きます。そこで高評価を得られたフリーダはニューヨークで再び個展を開き、絵の注文が多々舞い込むようになりました。しかし、フリーダの成功と多忙な日々により夫婦仲は崩れ1939年離婚が成立した。そして作品制作に没頭していたが真菌性皮膚疾患にかかったため作品制作が続けられなくなりました。
その後健康状態が安定した頃、フリーダは再びリベラと再婚しました。またこの年からメキシコ内でフリーダは有名になり、様々な賞を受賞し、複数の委員会に選出され、講師の仕事や雑誌の寄稿などが求められた。

しかし、健康上の理由により学校に通うことが困難になったフリーダは才能ある生徒を抜擢し絵の指導に尽力しました。
1940年代後半からフリーダの健康状態はさらに悪化していき、壊死したので指を切り、鎮痛剤では抑えられない痛みが右足を襲ったので、右足を切断しと治療を繰り返すが1954年肺炎を併発して亡くなりました。

彼女のように若いうちから身体的不幸が多く降りかかっても作品制作に没頭できるような忍耐力と精神力。また、その時の感情、痛み、苦痛などを作品に投影するスタンスは尊敬しなくてはなりませんね。
それではお付き合いありがとうございました。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

過去の賢者達 ベートーヴェン編

こんにちは。インターン生の坂本です。
今回は画家ではなく音楽家のベートーヴェンを紹介していきたいと思います。

 皆さんベートーヴェンという名前は音楽の授業などで聞いたことがあると思います。音楽家の中で五本指に入るほど有名なかたですね。
そんな彼でも若い時にさまざまな困難にぶつかります。それでは簡単な来歴を紹介します。

 1770年12月神聖ローマ帝国のボン(地名)で生まれます。ちなみに神聖ローマ帝国とは現在でいうとドイツ、オーストリア、チェコ、イタリアの北部に存在国家ですね。ボンは今ですとドイツにあたります。
ベートーヴェンの祖父は宮廷歌手であり、父親も歌手であったのですが、家計は祖父に頼っていました。しかし、1773年に祖父が他界してからは6歳で宮廷演奏で名を馳せていたモーツァルトのようにするために、父親に音楽のスパルタ教育を受けます。そして10歳になるころにはベートーヴェンが家計を支えるようになっていました。

 1787年ウィーンを訪れ、尊敬していたモーツァルトを訪問するが、母親の体調が悪化しボンに帰ります。しかし、その後母親は他界してしまいます。そしてその後、家族の世話に追われる日々をすごします。
そんな彼にも人生の転機が訪れます。1792年ボンに立ち寄った「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」という作曲家に才能を認められ弟子入りし、ウィーンに移住し、そしてついにピアノの即興演奏の名手として有名になりました。
 だがしかし、また次なる苦難が彼に訪れます。20歳の頃より持病の難聴が悪化し始め28歳のときについにほとんど聞こえなくなってしまいます。このときベートヴェンは遺書まで残し自殺を考えますが音楽への情熱でこの苦難を乗り越えます。

 その6年後1804年交響曲3番を発表してから1814年までの10年間は「傑作の森」と呼ばれ、「エロイカ」「運命」などの多くの名作を生みました。ちなみにこの時期に作曲した曲はベートーヴェンが生涯作曲した楽曲の半数を占めるほどの量だったそうです。

 また40代になると全く音が聞こえなくなり持病に苦しめられながらも「交響曲第9番」や「ミサ・ソレムニス」を作曲しました。
そして1826年12月に肺炎を患い、翌年3月肝硬変により他界しました。最後にベートーヴェンは「諸君喝采を。喜劇の終わりだ」とつぶやいたそうです。

 このように歴史に名を残す人は何かしらの苦悩などを抱えている場合が多いですね。しかしベートーヴェンのように取り組んでいる事への情熱だとか愛情が苦難を乗り越える上で大事だと思いました。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

過去の賢者達 ムンク編

はじめまして。インターンシップに参加させていただいている坂本と申します。
学校では主にイラストをメインに学ばせてもらってます。

それでは私が初めて書く記事で紹介させていただくのは「エドヴァルド・ムンク」さんです。

この人の代表作は「叫び」「マドンナ」などの代表作がありますが、この人の絵に恐怖心や禍々しさを感じるのは彼の少年時代の出来事が関係してると私は思うんですよね。
それではこの人の簡単な来歴を紹介します。

ムンクは1863年12月12日にノルウェーのロイテンにて生まれたのですが、ムンクが若干5歳の時に母は長女、次男、次女、三女を残し病気で他界します。そして不幸なことに、その9年後ムンクが14歳の時長女も亡くなってしまいます。このように若い頃から身近に死を感じていたムンクが描く芸術に暗い印象を抱くのは必然といえるでしょう。

その後技師になるために通っていたクリスチャニア工業学校に通っていたが、1880年リューマチ熱の影響で退学しました。しかし、その同年ノルウェー王立絵画学校の夜間コースに入学します。
その後ムンクは「ストーブに火をつける少女」、「朝」を秋季展というノルウェーのオスロで毎年開かれる美術展に出すが酷評されてしまいます。
その後ムンクは奨学金が与えられパリで一年間デッサンを学ぶのですが、その年の12月ムンクの父親が亡くなります。そのような悲しい出来事を経て「生命のフリーズ」というフリーズの装飾のように自分の作品をいくつかのテーマで結びつけるという構想を起こしそして1899年ついに代表作である「叫び」などを含む生命のフリーズを完成させました。

また、ムンクは美少年だったのですが不倫ばかりし、嫉妬と不安に苛まれる道を選んでいたそうですね。そういった感情も「嫉妬」とかに見られるきがしますね。

このように親族の死を若いときから経験してきたムンクにしかあの味は出せないのだろうと思いますし、またそのような悲しみの人生でなおかつ人に批判されてもなお自分の絵を貫き通したからこそ誰もが知っている名画を残せたのだと私は思います。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

岡本太郎の履歴書


インターン生の野中です。今日で最終回になります。今回紹介するのは日本の美術をぶっ壊し再発見した「岡本太郎」です。

岡本太郎の父、一平は朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を博し「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名でしたが、放蕩癖があり、家の電気を止められてしまうこともありました。

母、かの子は、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だったといいます。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがあるほどでした。

そんな芸術家一家に生まれた太郎は、周りとうまくなじめず小学校を転入転校を繰り返します。絵は好きで昔からたくさん描いていたそうです。美術の道を決めたのは高校を卒業したとき、東京美術学校へ進学します。

父が仕事でパリに行くのに岡本太郎も休学し一緒に行きます。パリでフランス語を学びながら、パリ大学で美術と民俗学を学びます。21才のとき両親は先に日本に帰国し岡本太郎は8年間一人パリに残ります。1940年戦争がはじまると岡本太郎は日本に戻り、軍隊に入ります。

戦争が終わると様々な岡本太郎は今までにないようなアバンギャンドルな作品を発表し人気を集めます。

岡本太郎は、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ました。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになりました。おなじように琉球諸島や東北地方の日本の古い文化や伝統を再発見し広く紹介することに尽力します。岡本太郎はTVに多く出演したことでもしられています。多くのバラエティーやクイズ番組に出て、「芸術は爆発だ!」などの名言を残しました。

岡本太郎の特筆すべき点は様々なグッズ制作に関わったことでした。有名なものだとグラスやネクタイ、コイのぼり、企業のシンボルなどプロダクトデザインを手がけたことです。当時画家としては珍しいことでした。岡本太郎は絵だけでなく、新しい画家の商業展開の仕方も提案したのでした。

芸術家の生き様いかがだったでしょうか。今まで紹介した画家には共通していることがあります。芸術家として生きるのはいつの時代でも難しいことです。しかしどんなに辛くても絵を描くことを諦めなかったことです。諦めないことは成功を収める上で一番重要なことかもしれません。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

マグリットの履歴書

こんにちはインターン生の野中です。残念ながら明日で最後になります。
今日まで紹介した画家は根っからのアーティストでした。しかし中にはもっと普通の暮らし方をした人もいました。

マグリットは1898年、ベルギー西部のレシーヌに生まれました。一家はマグリットの生まれた翌年にはジリという町に移り、1904年シャルルロワ近郊のシャトレに移る。少年時代の大部分をシャトレで過ごした。マグリットが13歳のとき母が原因不明の入水自殺をとげるという事件がありました。これは少年マグリットにとっては当然のことながら大きな衝撃を与えました。

12歳の頃から油絵を学んでいたマグリットは1916年ブリュッセルの美術学校に入学しました。卒業後は兵役につき、1922年から翌年までは生活のため壁紙工場で図案工をしてキャベツやバラの図案を描いていました。その後は1926年まで広告デザインの仕事をしています。商業的な活動が多かったようです。

1926年、マグリットはCentaure画廊と専属契約を結ぶことに成功し、画業に専念することが出来るようになりました。翌年画廊ではじめての個展を開催します。しかしながら、あまり評判を得ることは出来ませんでした。

 働かなくても絵の収入で暮らせるようになったマグリットは、この年ブリュッセルから憧れのパリへと旅立ちます。パリでは、多くのシュールレアリストたちと友達になりました。このことがのちの作風に影響を与えます。
ところがせっかく契約できたCentaure画廊が潰れてしまい、生活費が無くなってしまいました。やむなく、マグリットは翌年にブリュッセルへと帰ることにしました。ブリュッセルに戻ったマグリットは、弟のポールと広告代理店をはじめました。

マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルでは客間、寝室、食堂、台所からなる、日本式に言えば3LDKのつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民でした。残されているマグリットの写真は、常にスーツにネクタイ姿で、実際にこの服装で絵を描いていたそうです。彼は専用のアトリエは持たず、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたいました。制作は手際がよく、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることはなかったといいます。

彼は「サラリーマンタイプ」かれは広告などの商業をして、生計を立てていました。絵画だけで活躍しようとしていた他の画家とは違って、現実的で平凡な生活をしていました。しかし彼の描く作品は不思議な世界で普通ではありません。そのギャップに惹かれるのかもしれませんね。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

レオナールド・フジタの履歴書

最近猫ブームで猫を描く作家が売れていますね。ヒグチユウコとかまさにそうですね。

さて、猫ブームで新しく現れた作家もいれば再びスポットライトの当たる作家もいます。

レオナールドフジタ。海外では絶賛されたにもかかわらず、日本では「忘れられた画家」と呼ばれた作家です。
10_20_192_up_pauo8ngx

1886年(明治19年)東京市牛込区、現在の東京都新宿区の新小川町の4人兄弟の末っ子として生まれます。父は陸軍軍医で森鴎外の後任として陸軍軍医総監督まで昇進した人物でした。

フジタは子供の頃から絵を描き始めます。高校を卒業するころには画家を志しフランス留学を希望します。

森鴎外の勧めもあったことから1905年東京美術学校の西洋画科に入学します。しかし当時の写実的な絵ばかりを追求する美術学校の方針に失望し、観劇や旅行と授業を抜け出しては同級生と遊びまわりました。1910年に卒業し。大学在学中に出会った講師と結婚します。しかしフランス留学を夢見ていたフジタは結婚から一年と間を置かずして、パリへ向かい、結婚は破城してしまいます。

1913年(大正2年)パリに渡仏したフジタは、家賃の安いモンパルナスに居を構えます。当時モンパルナスにはたくさんの芸術家が住んでおり、様々な画家と知り合いますこのとき出会ったパブロ・ピカソとは晩年まで親友として付き合いがありました。また、当時フランスにいた薩摩治郎八、とも知り合います。治郎八は一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫でした。彼はパトロンとしてフジタを経済的に支えます。こkでフジタは様々な作家から刺激を受け、衝撃を受けたフジタは今までの画風をすべて捨て、再出発することをけついしました。

ところが、1914年パリで生活を初めて1年後に第一次世界大戦が始まってしまいます。のちに世界初の近代戦争といわれるこの戦争はヨーロッパ中を大混乱させます。

日本からの送金は途絶え、戦時下では絵など売れず、極貧生活を余儀なくされます。食事にも困るような生活でフジタは寒さのあまり自分の絵を燃やして暖を取ったといいます。そんな生活を2年も続けていると、いよいよ戦争にも終結が見えてきます。1917年このときフジタはカフェで出会ったフランス人モデルのフィルナンドと二度目の結婚をします。

このころ初めて絵が売れ7フランと決して高くはないですが収入を得ます。それから徐々に絵が売れ始め三か月後には個展をするまでになります。この個展でも高い評価を受け絵が売れるようになります。翌年1918年戦争が終わり、終戦の好景気でパリに多くのパトロンが戻ってており、このことがさらにフジタの追い風となります。

フジタの名声は絶頂まで高まり、始めは7フランしかつかなかった絵も、8000フラン以上で取引されるようになりました。

しかし、フェルナンドとは不倫が原因で離婚し、また新たに結婚した女性ともすぐに離婚してしまいます。二年後フジタは日本に一度帰国し、パリに戻りましたが第二次世界大戦がはじまってしまいます。

日本に貢献したいと考えたフジタはパリを離れ、日本に帰国し従軍画家として戦争画を多く手掛けます。しかしこれは失敗でした。終戦後フジタは戦争批判を受けます。さらにGHQにも追われるようになり、日本に嫌気がさしたフジタは日本を去り、生涯日本に再び帰ることはありませんでした。

フジタがフランスに戻ったとき、既に多くの親友画家が戦争で命を落とすか、外国に亡命しており、フジタ自身もマスコミから「亡霊」といわれる有様でした。

晩年フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナルド・ダ・ヴィンチの名前から取ったレオナール・フジタと名前を変えました。
 この時期、子供がいなかったフジタは多くの子供を描きいていました。そしてフジタはパリを離れて隠やかな生活を送っていました。フジタは学校帰りの子供たちと語らうのを何より楽しみにしていたといいいます。

フジタは才能があり、人脈もありました。しかし時代が悪かったせいで二度の戦争に巻き込まれてしまいます。第一次大戦のときはどんなにつらい生活でも決して日本に帰ろうとしませんでした。尊敬に値すると思います。彼は「グローバルタイプ」国内だけでなく海外に目を向けた画家でした。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。

ゴーギャンの履歴書

インターン生の野中です。今回で7回目。

先日、上野国立博物館で「ゴッホとゴーギャン展」が開催されることを知りました。ついこの間ゴッホの話を書いたばかりだったので今日はポール・ゴーギャンの紹介をしていきたいと思います。

g02

彼は1848年にパリに生まれます。父は共和主義のジャーナリストでした。しかしナポレオン3世のクーデターで職を失ってしまいます。一家はパリを離れてペルーに向かいます。ところがその航海中に父が急死してしまいます。残されたポールと母と姉は、リマに住む叔父を頼ることになり、ポールが7歳の時に、一家はフランスに戻ります。このときスペイン語で育ってきたポールはフランス語を身に付けました

ポールは地元の高校に通い、その後カトリック系の寄宿舎学校に三年間通い続けます。14歳の時に海軍予備学校に通い、卒業後は商船の水先人見習になります。もしかすると航行中に亡くなった父へなにかしら思いがあったのかもしれませんね。

三年後、ポールはフランス海軍に入隊します。二年間勤務したのち、知人の口利きによってパリ証券取引所に転職し、株式仲買人として働きはじめます。その後11年間で彼は実業家として成功を収め28歳で年収3万フラン(およそ60万円)と絵画取引でも同じくらいの収入を得ていたそうです。

株式仲買人として成功した彼は余暇に絵を描くようになります。パリには画家の集まるカフェも多くポールは画廊を巡ったり、画家の作品を買ったり、著名な画家と一緒に絵を描いたりします。つまりはゴーギャンは仕事の息抜きをする趣味として絵を描き始めました。

ところが1882年ポール34歳のときにパリの株式市場が大暴落してしまいます。絵画市場も大打撃を受けて、ゴーギャンの絵画取引は買主がいなくなったことで停止してしまいます。

収入の激減したポールは画家として生きていくことを考え始めます。

ポールは画家として生計を立てていこうと決意しましたがやはり、現実は厳しく、困窮してしまいます。雑多な仕事をしながら、妻の収入で何とか生活していきます。株式仲買人をしていたころとは一変して生活は貧しくなってしまいます。

1888年ポールはゴッホと共同生活をしています。9週間ほどで終わってしまったこの共同生活の後もポールはゴッホを本当に友人だと思い文通をよくしていたそうです。

文明の進んだヨーロッパ社会に疲れてしまったポールはタヒチに旅行を決めます。タヒチは彼の人生に大きな影響を与えます。

彼はタヒチの文明に汚染されていないところを気に入りタヒチをテーマに絵を描きます。しかしヨーロッパではほとんど評価を得られませんでした。

妻とも離婚したポールはタヒチに移り住み晩年までそこで絵を描き続けることになりました。

彼は株式仲買人という文明的な仕事から画家に転職した「脱サラ」タイプの画家でした。ポール・ゴーギャンが再評価されたのは遅く、死後でした。生前はほとんど評価されずなかなか恵まれない人生を送ります。しかし彼が現代のアートの先駆けとなったことは間違いないのでした。

興味を持たれた方はお気軽にお問い合わせください。