過去の賢者達 ロートレック編

どうもインターン生の坂本です。
今回はフランスの画家のアンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介したいと思います。

ロートレックは1864年アルビで生まれました。ロートレックの家はフランスの名家であったそうです。
ロートレックが8歳の時両親の不仲により母親と共にパリに住むようになります。そこで彼は絵を描き始めます。その絵を見た母親はロートレックに才能があると思い父親の友人の画家に紹介しレッスンを受けるようになります。

しかし、13歳の時客間で転倒し左足の大腿骨を骨折。14歳に散歩中に中溝に落ち右足の大腿骨を骨折してしまいす。そのせいで成人しても胴体は正常だが脚は子供のままになり身長152cmに過ぎなかった。病気によりアルビに戻ったが、父親には疎まれ寂しい青春を送った。そのときロートレックは自分の存在意義を示す為絵に没頭したそうです。

1882年ロートレックはパリに出て画塾で絵を学びます。そして彼が24歳の時ブリュッセルの20人展に出展します。またその翌年にはロートレック展を開きました。
そして27歳「ムーラン・ルージュ」を制作します。その後制作と旅で多忙な日々を過ごすようになります。

1897年フロショ通りに新しいアトリエを構えました。その時からポスターの制作を辞めて、石版画に熱中するようになります。

しかし、このころからロートレックの飲酒が深くなっていきました。その後彼はアルコール中毒が原因で発作を起こします。彼を治療する為に彼の母親は彼を拉致し、精神病院に入れました。自分が正常であることをアピールし退院したいロートレックは、入院中記憶で「サーカス」を制作し見事退院します。

しかし、退院後再び飲酒をはじめ1901年ついに脳出血により死亡してしまった。
彼の最後の言葉は「馬鹿な年寄りめ」という父親へ対しての言葉だったそうです。

最後の言葉から考えるに、ロートレックは最後の最後まで父親に認めてもらいたかったのかなと思いました。

彼のように自分の存在意義を示す為や、父親に認めてもらうために一つのことに熱中して身体的ハンディーキャップなどを跳ね返すような気概は見習わなくてはならないなと思いました。

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過去賢者達 フリーダ編 記事 過去の賢者達

どうもインターン生の坂本です。
今回はフリーダ・カーロというメキシコの女性画家を紹介したいと思います。

彼女はメキシコの有名な画家ですね。

それでは簡単な来歴を紹介したいと思います。

フリーダは1907年7月6日メキシコシティの近郊にあるコヨアカンに生まれます。
普通の生活をしていたのですがメキシコ革命の勃発により生活が厳しくなります。そしてフリーダが6歳の時、急性灰白隨炎というウイルス感染症にかかり9か月寝たきりの生活を送っていました。この影響で右腿から踝にかけて成長が止まりやせ細ってしまい、それをよくするため、色々なスポーツをしたが元に戻ることはなかったそうです。

そんな彼女をリハビリを兼ねて父親は良くハイキングに連れていき、父親の趣味であった水彩画やカメラをフリーダに教えていたそうです。その後メキシコの最高教育機関の国立予科高等学校へ進学し、父親の友人の広告デザイナーにスケッチを習い画家を目指すようになりました。
 しかし、1925年9月、バスでの通学中路面電車とバスが衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生しました。
フリーダも生死をさまよう重症で、3か月の間ベッドから動けませんでした。その痛みと暇を忘れるために本格的な絵を描くようになったそうです。

1928年フリーダはメキシコ共産党へ入党します。そこで夫となるディエゴ・リベラと出会います。そこでお互いに作品を見せ合い互いに感銘をうけた二人は結婚します。しかし、フリーダは2度妊娠しますが事故の影響で2度とも流産します。また、夫のリベラが妹のクリスティナと関係を持ち大きな心理的負担をもちます。

ちなみにこの年に発表した「ちょっとした刺し傷」はこのときの感情がでて、グロいですねw

1938年大規模な個展を海外で開きます。そこで高評価を得られたフリーダはニューヨークで再び個展を開き、絵の注文が多々舞い込むようになりました。しかし、フリーダの成功と多忙な日々により夫婦仲は崩れ1939年離婚が成立した。そして作品制作に没頭していたが真菌性皮膚疾患にかかったため作品制作が続けられなくなりました。
その後健康状態が安定した頃、フリーダは再びリベラと再婚しました。またこの年からメキシコ内でフリーダは有名になり、様々な賞を受賞し、複数の委員会に選出され、講師の仕事や雑誌の寄稿などが求められた。

しかし、健康上の理由により学校に通うことが困難になったフリーダは才能ある生徒を抜擢し絵の指導に尽力しました。
1940年代後半からフリーダの健康状態はさらに悪化していき、壊死したので指を切り、鎮痛剤では抑えられない痛みが右足を襲ったので、右足を切断しと治療を繰り返すが1954年肺炎を併発して亡くなりました。

彼女のように若いうちから身体的不幸が多く降りかかっても作品制作に没頭できるような忍耐力と精神力。また、その時の感情、痛み、苦痛などを作品に投影するスタンスは尊敬しなくてはなりませんね。
それではお付き合いありがとうございました。

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過去の賢者達 ベートーヴェン編

こんにちは。インターン生の坂本です。
今回は画家ではなく音楽家のベートーヴェンを紹介していきたいと思います。

 皆さんベートーヴェンという名前は音楽の授業などで聞いたことがあると思います。音楽家の中で五本指に入るほど有名なかたですね。
そんな彼でも若い時にさまざまな困難にぶつかります。それでは簡単な来歴を紹介します。

 1770年12月神聖ローマ帝国のボン(地名)で生まれます。ちなみに神聖ローマ帝国とは現在でいうとドイツ、オーストリア、チェコ、イタリアの北部に存在国家ですね。ボンは今ですとドイツにあたります。
ベートーヴェンの祖父は宮廷歌手であり、父親も歌手であったのですが、家計は祖父に頼っていました。しかし、1773年に祖父が他界してからは6歳で宮廷演奏で名を馳せていたモーツァルトのようにするために、父親に音楽のスパルタ教育を受けます。そして10歳になるころにはベートーヴェンが家計を支えるようになっていました。

 1787年ウィーンを訪れ、尊敬していたモーツァルトを訪問するが、母親の体調が悪化しボンに帰ります。しかし、その後母親は他界してしまいます。そしてその後、家族の世話に追われる日々をすごします。
そんな彼にも人生の転機が訪れます。1792年ボンに立ち寄った「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」という作曲家に才能を認められ弟子入りし、ウィーンに移住し、そしてついにピアノの即興演奏の名手として有名になりました。
 だがしかし、また次なる苦難が彼に訪れます。20歳の頃より持病の難聴が悪化し始め28歳のときについにほとんど聞こえなくなってしまいます。このときベートヴェンは遺書まで残し自殺を考えますが音楽への情熱でこの苦難を乗り越えます。

 その6年後1804年交響曲3番を発表してから1814年までの10年間は「傑作の森」と呼ばれ、「エロイカ」「運命」などの多くの名作を生みました。ちなみにこの時期に作曲した曲はベートーヴェンが生涯作曲した楽曲の半数を占めるほどの量だったそうです。

 また40代になると全く音が聞こえなくなり持病に苦しめられながらも「交響曲第9番」や「ミサ・ソレムニス」を作曲しました。
そして1826年12月に肺炎を患い、翌年3月肝硬変により他界しました。最後にベートーヴェンは「諸君喝采を。喜劇の終わりだ」とつぶやいたそうです。

 このように歴史に名を残す人は何かしらの苦悩などを抱えている場合が多いですね。しかしベートーヴェンのように取り組んでいる事への情熱だとか愛情が苦難を乗り越える上で大事だと思いました。

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過去の賢者達 ムンク編

はじめまして。インターンシップに参加させていただいている坂本と申します。
学校では主にイラストをメインに学ばせてもらってます。

それでは私が初めて書く記事で紹介させていただくのは「エドヴァルド・ムンク」さんです。

この人の代表作は「叫び」「マドンナ」などの代表作がありますが、この人の絵に恐怖心や禍々しさを感じるのは彼の少年時代の出来事が関係してると私は思うんですよね。
それではこの人の簡単な来歴を紹介します。

ムンクは1863年12月12日にノルウェーのロイテンにて生まれたのですが、ムンクが若干5歳の時に母は長女、次男、次女、三女を残し病気で他界します。そして不幸なことに、その9年後ムンクが14歳の時長女も亡くなってしまいます。このように若い頃から身近に死を感じていたムンクが描く芸術に暗い印象を抱くのは必然といえるでしょう。

その後技師になるために通っていたクリスチャニア工業学校に通っていたが、1880年リューマチ熱の影響で退学しました。しかし、その同年ノルウェー王立絵画学校の夜間コースに入学します。
その後ムンクは「ストーブに火をつける少女」、「朝」を秋季展というノルウェーのオスロで毎年開かれる美術展に出すが酷評されてしまいます。
その後ムンクは奨学金が与えられパリで一年間デッサンを学ぶのですが、その年の12月ムンクの父親が亡くなります。そのような悲しい出来事を経て「生命のフリーズ」というフリーズの装飾のように自分の作品をいくつかのテーマで結びつけるという構想を起こしそして1899年ついに代表作である「叫び」などを含む生命のフリーズを完成させました。

また、ムンクは美少年だったのですが不倫ばかりし、嫉妬と不安に苛まれる道を選んでいたそうですね。そういった感情も「嫉妬」とかに見られるきがしますね。

このように親族の死を若いときから経験してきたムンクにしかあの味は出せないのだろうと思いますし、またそのような悲しみの人生でなおかつ人に批判されてもなお自分の絵を貫き通したからこそ誰もが知っている名画を残せたのだと私は思います。

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岡本太郎の履歴書


インターン生の野中です。今日で最終回になります。今回紹介するのは日本の美術をぶっ壊し再発見した「岡本太郎」です。

岡本太郎の父、一平は朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を博し「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名でしたが、放蕩癖があり、家の電気を止められてしまうこともありました。

母、かの子は、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だったといいます。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがあるほどでした。

そんな芸術家一家に生まれた太郎は、周りとうまくなじめず小学校を転入転校を繰り返します。絵は好きで昔からたくさん描いていたそうです。美術の道を決めたのは高校を卒業したとき、東京美術学校へ進学します。

父が仕事でパリに行くのに岡本太郎も休学し一緒に行きます。パリでフランス語を学びながら、パリ大学で美術と民俗学を学びます。21才のとき両親は先に日本に帰国し岡本太郎は8年間一人パリに残ります。1940年戦争がはじまると岡本太郎は日本に戻り、軍隊に入ります。

戦争が終わると様々な岡本太郎は今までにないようなアバンギャンドルな作品を発表し人気を集めます。

岡本太郎は、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ました。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになりました。おなじように琉球諸島や東北地方の日本の古い文化や伝統を再発見し広く紹介することに尽力します。岡本太郎はTVに多く出演したことでもしられています。多くのバラエティーやクイズ番組に出て、「芸術は爆発だ!」などの名言を残しました。

岡本太郎の特筆すべき点は様々なグッズ制作に関わったことでした。有名なものだとグラスやネクタイ、コイのぼり、企業のシンボルなどプロダクトデザインを手がけたことです。当時画家としては珍しいことでした。岡本太郎は絵だけでなく、新しい画家の商業展開の仕方も提案したのでした。

芸術家の生き様いかがだったでしょうか。今まで紹介した画家には共通していることがあります。芸術家として生きるのはいつの時代でも難しいことです。しかしどんなに辛くても絵を描くことを諦めなかったことです。諦めないことは成功を収める上で一番重要なことかもしれません。

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マグリットの履歴書

こんにちはインターン生の野中です。残念ながら明日で最後になります。
今日まで紹介した画家は根っからのアーティストでした。しかし中にはもっと普通の暮らし方をした人もいました。

マグリットは1898年、ベルギー西部のレシーヌに生まれました。一家はマグリットの生まれた翌年にはジリという町に移り、1904年シャルルロワ近郊のシャトレに移る。少年時代の大部分をシャトレで過ごした。マグリットが13歳のとき母が原因不明の入水自殺をとげるという事件がありました。これは少年マグリットにとっては当然のことながら大きな衝撃を与えました。

12歳の頃から油絵を学んでいたマグリットは1916年ブリュッセルの美術学校に入学しました。卒業後は兵役につき、1922年から翌年までは生活のため壁紙工場で図案工をしてキャベツやバラの図案を描いていました。その後は1926年まで広告デザインの仕事をしています。商業的な活動が多かったようです。

1926年、マグリットはCentaure画廊と専属契約を結ぶことに成功し、画業に専念することが出来るようになりました。翌年画廊ではじめての個展を開催します。しかしながら、あまり評判を得ることは出来ませんでした。

 働かなくても絵の収入で暮らせるようになったマグリットは、この年ブリュッセルから憧れのパリへと旅立ちます。パリでは、多くのシュールレアリストたちと友達になりました。このことがのちの作風に影響を与えます。
ところがせっかく契約できたCentaure画廊が潰れてしまい、生活費が無くなってしまいました。やむなく、マグリットは翌年にブリュッセルへと帰ることにしました。ブリュッセルに戻ったマグリットは、弟のポールと広告代理店をはじめました。

マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルでは客間、寝室、食堂、台所からなる、日本式に言えば3LDKのつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民でした。残されているマグリットの写真は、常にスーツにネクタイ姿で、実際にこの服装で絵を描いていたそうです。彼は専用のアトリエは持たず、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたいました。制作は手際がよく、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることはなかったといいます。

彼は「サラリーマンタイプ」かれは広告などの商業をして、生計を立てていました。絵画だけで活躍しようとしていた他の画家とは違って、現実的で平凡な生活をしていました。しかし彼の描く作品は不思議な世界で普通ではありません。そのギャップに惹かれるのかもしれませんね。

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レオナールド・フジタの履歴書

最近猫ブームで猫を描く作家が売れていますね。ヒグチユウコとかまさにそうですね。

さて、猫ブームで新しく現れた作家もいれば再びスポットライトの当たる作家もいます。

レオナールドフジタ。海外では絶賛されたにもかかわらず、日本では「忘れられた画家」と呼ばれた作家です。
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1886年(明治19年)東京市牛込区、現在の東京都新宿区の新小川町の4人兄弟の末っ子として生まれます。父は陸軍軍医で森鴎外の後任として陸軍軍医総監督まで昇進した人物でした。

フジタは子供の頃から絵を描き始めます。高校を卒業するころには画家を志しフランス留学を希望します。

森鴎外の勧めもあったことから1905年東京美術学校の西洋画科に入学します。しかし当時の写実的な絵ばかりを追求する美術学校の方針に失望し、観劇や旅行と授業を抜け出しては同級生と遊びまわりました。1910年に卒業し。大学在学中に出会った講師と結婚します。しかしフランス留学を夢見ていたフジタは結婚から一年と間を置かずして、パリへ向かい、結婚は破城してしまいます。

1913年(大正2年)パリに渡仏したフジタは、家賃の安いモンパルナスに居を構えます。当時モンパルナスにはたくさんの芸術家が住んでおり、様々な画家と知り合いますこのとき出会ったパブロ・ピカソとは晩年まで親友として付き合いがありました。また、当時フランスにいた薩摩治郎八、とも知り合います。治郎八は一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫でした。彼はパトロンとしてフジタを経済的に支えます。こkでフジタは様々な作家から刺激を受け、衝撃を受けたフジタは今までの画風をすべて捨て、再出発することをけついしました。

ところが、1914年パリで生活を初めて1年後に第一次世界大戦が始まってしまいます。のちに世界初の近代戦争といわれるこの戦争はヨーロッパ中を大混乱させます。

日本からの送金は途絶え、戦時下では絵など売れず、極貧生活を余儀なくされます。食事にも困るような生活でフジタは寒さのあまり自分の絵を燃やして暖を取ったといいます。そんな生活を2年も続けていると、いよいよ戦争にも終結が見えてきます。1917年このときフジタはカフェで出会ったフランス人モデルのフィルナンドと二度目の結婚をします。

このころ初めて絵が売れ7フランと決して高くはないですが収入を得ます。それから徐々に絵が売れ始め三か月後には個展をするまでになります。この個展でも高い評価を受け絵が売れるようになります。翌年1918年戦争が終わり、終戦の好景気でパリに多くのパトロンが戻ってており、このことがさらにフジタの追い風となります。

フジタの名声は絶頂まで高まり、始めは7フランしかつかなかった絵も、8000フラン以上で取引されるようになりました。

しかし、フェルナンドとは不倫が原因で離婚し、また新たに結婚した女性ともすぐに離婚してしまいます。二年後フジタは日本に一度帰国し、パリに戻りましたが第二次世界大戦がはじまってしまいます。

日本に貢献したいと考えたフジタはパリを離れ、日本に帰国し従軍画家として戦争画を多く手掛けます。しかしこれは失敗でした。終戦後フジタは戦争批判を受けます。さらにGHQにも追われるようになり、日本に嫌気がさしたフジタは日本を去り、生涯日本に再び帰ることはありませんでした。

フジタがフランスに戻ったとき、既に多くの親友画家が戦争で命を落とすか、外国に亡命しており、フジタ自身もマスコミから「亡霊」といわれる有様でした。

晩年フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナルド・ダ・ヴィンチの名前から取ったレオナール・フジタと名前を変えました。
 この時期、子供がいなかったフジタは多くの子供を描きいていました。そしてフジタはパリを離れて隠やかな生活を送っていました。フジタは学校帰りの子供たちと語らうのを何より楽しみにしていたといいいます。

フジタは才能があり、人脈もありました。しかし時代が悪かったせいで二度の戦争に巻き込まれてしまいます。第一次大戦のときはどんなにつらい生活でも決して日本に帰ろうとしませんでした。尊敬に値すると思います。彼は「グローバルタイプ」国内だけでなく海外に目を向けた画家でした。

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ゴーギャンの履歴書

インターン生の野中です。今回で7回目。

先日、上野国立博物館で「ゴッホとゴーギャン展」が開催されることを知りました。ついこの間ゴッホの話を書いたばかりだったので今日はポール・ゴーギャンの紹介をしていきたいと思います。

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彼は1848年にパリに生まれます。父は共和主義のジャーナリストでした。しかしナポレオン3世のクーデターで職を失ってしまいます。一家はパリを離れてペルーに向かいます。ところがその航海中に父が急死してしまいます。残されたポールと母と姉は、リマに住む叔父を頼ることになり、ポールが7歳の時に、一家はフランスに戻ります。このときスペイン語で育ってきたポールはフランス語を身に付けました

ポールは地元の高校に通い、その後カトリック系の寄宿舎学校に三年間通い続けます。14歳の時に海軍予備学校に通い、卒業後は商船の水先人見習になります。もしかすると航行中に亡くなった父へなにかしら思いがあったのかもしれませんね。

三年後、ポールはフランス海軍に入隊します。二年間勤務したのち、知人の口利きによってパリ証券取引所に転職し、株式仲買人として働きはじめます。その後11年間で彼は実業家として成功を収め28歳で年収3万フラン(およそ60万円)と絵画取引でも同じくらいの収入を得ていたそうです。

株式仲買人として成功した彼は余暇に絵を描くようになります。パリには画家の集まるカフェも多くポールは画廊を巡ったり、画家の作品を買ったり、著名な画家と一緒に絵を描いたりします。つまりはゴーギャンは仕事の息抜きをする趣味として絵を描き始めました。

ところが1882年ポール34歳のときにパリの株式市場が大暴落してしまいます。絵画市場も大打撃を受けて、ゴーギャンの絵画取引は買主がいなくなったことで停止してしまいます。

収入の激減したポールは画家として生きていくことを考え始めます。

ポールは画家として生計を立てていこうと決意しましたがやはり、現実は厳しく、困窮してしまいます。雑多な仕事をしながら、妻の収入で何とか生活していきます。株式仲買人をしていたころとは一変して生活は貧しくなってしまいます。

1888年ポールはゴッホと共同生活をしています。9週間ほどで終わってしまったこの共同生活の後もポールはゴッホを本当に友人だと思い文通をよくしていたそうです。

文明の進んだヨーロッパ社会に疲れてしまったポールはタヒチに旅行を決めます。タヒチは彼の人生に大きな影響を与えます。

彼はタヒチの文明に汚染されていないところを気に入りタヒチをテーマに絵を描きます。しかしヨーロッパではほとんど評価を得られませんでした。

妻とも離婚したポールはタヒチに移り住み晩年までそこで絵を描き続けることになりました。

彼は株式仲買人という文明的な仕事から画家に転職した「脱サラ」タイプの画家でした。ポール・ゴーギャンが再評価されたのは遅く、死後でした。生前はほとんど評価されずなかなか恵まれない人生を送ります。しかし彼が現代のアートの先駆けとなったことは間違いないのでした。

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ゴッホの履歴書

インターン生の野中です。今回で6回目になりました。

今回紹介するのは日本でも人気の高い画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」です。彼は印象派の中で最も有名なオランダの画家です。小惑星の中には「フィンセント・ファン・ゴッホ」の名前を付けられたものもあります。20世紀の美術に多大な影響を与えた彼はいったいどんな人物だったのでしょうか。「狂気の画家」といわれる彼の生涯を紹介したいと思います

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ゴッホは1853年オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれました。16歳のときから、画商グーピル商会に勤め始めます。熱心な働きぶりを評価され20歳の時にロンドン支店に栄転。しかしゴッホは少年時代から思い込みが激しく上司やお客との対立し、相思相愛だと思っていた相手にフラれ、仕事への熱意を失った彼は23歳のとき商会を解雇されてしまいます。

その後イギリスで教師として働いたりオランダの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、ゴッホは貧しい人や労働者の為に働きたいとアムステルダムで神学部の受験勉強を始めます。ところが受験勉強の難しさから挫折してしまいます。このときからゴッホの自罰癖が現れます。

しかしその後ベルギーの炭坑地帯で伝道活動を行い、怪我や病気で苦しむ人に献身的に尽くし、身なりも労働者と同じようなみすぼらしい恰好をしていました。その熱心な姿勢が認められて、教会から伝道師の仮免許と月額50フランの俸給をもらうようになります。しかし過酷な労働条件や賃金のカット、労働争議の巻き起こる炭鉱町では、社会に憤ることを説くのではなく、キリストに倣うように説いたゴッホはなかなか受け入れられませんでした。そうしておよそ半年でゴッホの常軌を逸した自罰行為は教会の尊厳を損なうものだと免許状を取り上げてしまいます。

行くあてもなくなり彼は実家に戻り絵を描いて暮らしていました。その暮らしぶりは「年金生活者」のようだったといわれています。毎日外を歩き回り周りの風景や人物をスケッチすることでいつしか画家を目指すことを決意します。27歳でのことです。

以降、オランダのエッテン、ハーグ、ニューネン、ベルギーのアントウェルペンと移り住み、弟のテオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けます。この時期には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の主な作品です。

33歳ごろ、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っていました。。

35歳、南フランスのアルルに移り、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、ポール・ゴーギャンを迎えての共同生活を始めます。最初はよかった関係も、絵の方針の行き違いによって次第に関係は行き詰ってしまいます。、

その年の12月末のゴッホの「耳切り事件」で共同生活は終わりを迎えます。以後、発作に苦しみながら病院への入退院を繰り返しました。最後はサン=レミの精神病院に入院しました。時折ひどい発作が襲う中でも「星月夜」など多くの風景画、人物画を描き続けました。

精神病院を退院してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住みました。ゴッホ47歳。画作を続けましたが自ら銃を撃ち亡くなってしまいます。

ゴッホは成功した画家とはいえません。生涯でほとんど絵は売れなかったそうです。評価されここまで有名になったのは死後です。彼の死後、ほとんどの絵は二束三文で売られてしまったり、塗りつぶされてしまったり、納屋の壁に穴が開いたのを修理するのに使われたそうです。現在であれば安くても一億円はするような絵がそのような末路を辿るのは悲しいことです。

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狩野元信の働き方

インターン生の野中です。今回で四回目になりました。

前回紹介した三人の巨匠、放浪の人ダヴィンチ、職人気質のミケランジェロ、社長タイプのラファエロ。今回紹介するのは彼らと同じ時代に日本で活躍していた「狩野元信」を紹介します。

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狩野派といえば日本で400年間画壇に君臨し続けた職業絵師集団です。彼らは室町時代から江戸末期まで第一線で活躍していました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と名だたる天下人の仕事を請け負っていました。

特に2代目「狩野元信」は400年日本の画壇で活躍し続ける基盤を作った人物です。

元信は当時主流だったモノクロの水墨画と多彩な色を使った大和絵を併せて、新しい描画を確立します。

とくに大徳寺の大仙院に所蔵されている元信筆・四季花鳥図はダイナミックな構図と繊細な描写で、当時の武将たちから気に入られるようになり、注文が殺到します。そうするとどうしても人の手が足りずたくさんの弟子を雇って、様々な作品を量産できるようにしました。

しかし弟子たちは元信に比べると腕は落ちます。そこで元信は絵手本、様々な花や動物、昆虫のモチーフを網羅したマニュアルを作ることで、弟子でも元信と変わらぬ絵を描けるようになりました。これで品質も一定でたくさんの絵を生産できるようにしたのです。

当時の絵師はアーティストではなく、職人であったため、描き手の個性よりも元信と同じ絵が描けることが求められました。元信は自分と同じ絵が描けるような教育システムを作ったのでした。

元信はさらに「狩野派」の経営を固めるためにある事業に乗り出します。それが扇絵です。当時扇は祝い事や慶事を始め、季節のあいさつなどの度に贈る習慣がありました。贈り物として人気だった扇に目をつけ、元信はこれを大量生産します。弟子を活用したこの事業で莫大な儲けを出し、「狩野派」を確かなものにしたのです。

幕府の将軍義政とも近しい仲だった元信は扇の独占契約を結ぶます。扇座という扇制作の独占権を得て元信は絵師としてだけではなく経営者としても活躍します。

大勢の弟子を取り、弟子の教育システムを作り上げた元信は絵画をビジネス化させることに成功しました。

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