油絵のひみつ「油を使って絵を描く?」

初めまして。インターン生の武井です。今回から10回に渡って、油絵制作に関するお話をしていきます。

油絵はその名の通り油を使って描く絵です。誰もが一度は、筆に水を含ませて描く水彩絵の具を使ったことがあると思います。油絵ではちょうどそのように油に筆をつけると思ってください。
「油」と聞いて、台所にあるサラダ油を思い浮かべた方はいらっしゃいますか? 私も初めはオリーブオイルで描けるのかと思ったものですが、料理には料理用の、絵には絵に使う油があるのです。
油絵を描くのに用いる油は「乾性油」と言います。これも読んで字のごとく、乾燥する性質のある油ということですね。この油で色のついた粉を練って作った絵の具が油絵の具です。
今思いついたのですが、調理油と食材を用いて、なんだか香ばしい匂いがして、食べることの可能なアートといったものが作れるかもしれません。お子様のお弁当にどうですか。

閑話休題、乾性油にも種類があり、主なものは「リンシードオイル」、「ポピーオイル」の2つです。

「リンシードオイル」は、油絵に使うものでは最もスタンダードなオイルです。その成分はズバリ、近年、美容の世界で注目されている亜麻の油、亜麻仁油です。
食品売り場で見たことがありますか?お高いですよね。それを油絵では、前述の通り水のように使っていきますよ! 注意:画用に作られているものは健康に良さそうだからって飲んじゃだめです。だめですよ?
「ポピーオイル」はケシの油でできています。強い黄色のリンシードオイルよりもやや澄んだ、控えめな黄色をしています。その性質も少し控えめで、乾燥する速度がやや遅く、乾いた部分の強度がリンシードよりやや劣ります。
白い絵の具をキレイに使いたい場合や、仕上げの段階で使うとよいでしょう。また、リンシードオイルではなんとなく早く乾きすぎると感じる人は、こちらのポピーオイルを使ってみてください。

油絵に使う油にもうひとつ、「揮発性油」というものがあります。これはネバネバした乾性油のうすめ液として使います。常温で置いておくとじゃんじゃん気化してしまう性質があり、要するにシンナーですね。
この揮発性油も主なものは2つです。「テレピン油」と「ペトロール」です。

「テレピン」はマツ科の樹木から得られる脂で作られます。こちらの方がペトロールよりもスタンダードですね。オイルの入ったビンを開けると芳醇なマツの香りが……。
冗談です。いけませんよ。換気はしっかりと行ってください。実際は匂いがツーンときつくて嗅いでいられません。
「ペトロール」は石油から作られます。テレピンよりも揮発速度が穏やか、匂いも穏やかなので、テレピンが臭くて敵わん!という方、使ってみてください。
(とは言ってみますが、すみません。私はペトロールを使ったことがないのですよ。どんな匂いがするんでしょうね?)

乾性油について「水のように」と申しましたが、実際には、水彩における水のような使い方をするのはこちらの揮発性油の方です。
油絵の具や乾性油を薄く溶かす性質がありまして、これをたっぷり用いて絵の具をバシャバシャに溶けば、水彩画や水墨画のような効果も狙えます。
注意しなければならないのは、この「溶かす」という効果で、既に画面に描かれている絵も溶かしてしまいます。
その水のような使いやすさから、初心者は頼りがちになってしまう揮発性油ですが、一度は乾性油のみで描いてみることをおススメします。
その際は、チューブから出した油絵の具に、乾性油をポタっと垂らして、「濃いソース」ぐらいの軟らかさに練っておくと使いやすいです。
「溶かす」性質の揮発性油では得られない、「延びる」という感覚は油絵の具の醍醐味です。
この「延びる」性質を実感できないままに、「なんか油絵の具ってガサガサしてて使いづらいなー」と思っている方、いらっしゃいませんか?
乾性油を使ってみてください。乾性油を混ぜることで、濃度も伸びも自在となる油絵の具は、時に絵の具が躍るように大胆に、時に絹の目のように繊細な描画が可能で、数ある絵の具のなかでも特に豊かな表情を見せてくれます。

最後に、お手入れの際に用いる油について。
筆などの道具のお手入れには、私は「灯油」を使います。そう。ストーブやファンヒーターの燃料とする灯油です。
一般的には画材店で手に入る専用の洗浄液「筆洗油」を用いますが、成分は似たようなものなので問題ないと思います。灯油臭いですけどね。
絵の具を溶かす性質があればよいので、ペトロールを使うのもよいでしょう。制作中に筆を洗っても、洗浄用の油が混ざらないので安心ですね。

制作後の筆のお手入れは確実に行ってください。乾性油の「乾く性質」はバカになりません。
うっかり洗わないで放置してしまうと、メタルバンドのトゲトゲ頭のように固まってしまいます。
筆先を洗うのはもちろんですが、根本は特に入念に洗浄してください。筆に乾性油を残さないように。

以上、油絵に使う油についてのお話でした。

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過去の賢者達 ゴヤ編

どうもインターン生の坂本です。
今回はゴヤを紹介していきたいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1746年、スペインのフエンデトードスに生まれました。父親は鍍金師であり、芸術を愛好する気風の中で育ちました。
14歳の時から約4年間、サラゴサで地元の画家のもとで絵画の修行をします。
この間、のちにゴヤの義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バエウ、その弟ラモーン・バエウに出会います。
1763年と1766年の2回、サン・フェルナンド王立アカデミーに出品しましたが落選してしまいます。
そしてその4年後、大画家を目指してイタリアのローマに行き、イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学びました。
1771年ゴヤはスペインに帰国しました。

そして27歳の時、バエウの妹ホセーファと結婚します。
1774年、バエウの手引きでマドリードへ出て、1775年から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わるようになります。
1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となります。
しかし、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤは、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。
今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『巨人』などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものだったそうです。

1812年ゴヤの妻が亡くなってしまいますが、1815年、ゴヤは、40歳以上も年下のレオカディア・バイスというの家政婦と同棲します。
1819年にゴヤはマドリード郊外に「聾者の家」と通称される別荘を購入しまし制作を続けました。
その後当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命し、ボルドーで暮らすようになりますが、1828年ゴヤは亡命先のボルドーにおいて波乱に満ちた生涯を閉じました。

自分の最盛期に不治の病にかかったり妻がなくなったりしても絵を描き続けた姿勢はすばらしいなと思いました。

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過去の賢者達 モーツァルト編

どうもインターン生の坂本です。
今回はモーツァルトについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介したいと思います。

1756年1月27日ザルツブルクに生まれます。
父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えたそうです。
モーツァルトは3歳のときから チェンバロを弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行っていたそうです。

父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行いました。

これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためでしたが、どこの宮廷でも就職活動に失敗してしまいます。
1769年から1771年にかけて、第1回目のイタリア旅行を行い、父と共にミラノ、ボローニャ、ローマを巡回します。その時モーツァルトはほとんどの音楽教育を受けました。

1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与されます。
また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員にも選出され順調なように見えますが稼ぎは少なかったそうです。

マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画をたてるが、父親は猛然と反対し、1778年 2月にはパリ行きを命じます。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎも良くなかったそうです。

1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚します。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が多くなります。

ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に怖れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする憶説もあるそうです。

9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール「 魔笛」を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用しており、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後にウィーンで死去した。

モーツァルトの死後、聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていないそうです。
作品総数は断片も含め900曲以上に及びさまざまなジャンルのものだったそうです。

若い頃から認められはしていたけれど恋愛関係の不幸や稼ぎには恵まれず苦しい生活を送っていたモーツァルトですが35歳でなくなったにもかかわらずその膨大な作品数を見るに作曲への情熱を感じました。
そのように情熱をもち物事に打ち込んでいきたいと思いました。

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過去の賢者達 シューベルト編

どうもインターン生の坂本です。
今回はシューベルトについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介します。

シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。
父はアマチュア音楽家で、5歳の時父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学しました。この頃、父はシューベルトにヴァイオリンの初歩を教え始めました。
7歳頃になると父親の手に余るほどの神童振りを発揮し始めたため、父親はシューベルトをリヒテンタール教会の聖歌隊に預けることにしたそうです。

1808年シューベルトはコンヴィクトという学校の奨学金を得ました。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていました。
ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属しました。献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてシューベルトを助けていました。
そこで作曲を始め1810年から1813年に多くの楽曲を作成しました。
1813年の終りにシューベルトは変声期によりコンヴィクトを去り、兵役を避けるために、父の学校に初級生のための教師として入職しました。

1816年コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショーバーがシューベルトを訪問して、学校での教師生活を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトは音楽監督に志願したが不採用になったばかりで不満がたまっていたので決断し、シューベルトはショーバーの客人となりました。

しかしこの時教師をやめたし、公演で稼ぐことも出来なかった為シューベルトは貧乏でした。
しかし、友人達は宿や食料を与えたり、金を持っている者は楽譜の代金を支払った。

1825年ついにシューベルトに幸福が訪れます。出版は急速に進められ金銭的問題はなくなりました。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をしました。旅行中に、「ノルマンの歌 」、「囚われし狩人の歌」や「ピアノソナタ イ短調」を作曲、歌ではこれまでの作曲で得た最高額の収入を得ました。

1826年から1828年にかけてずっとウィーンに留まりましたがその間、たびたび体調不良に襲われます。

その後シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、と病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、1828年に兄フェルディナントの家で死去した。

シューベルトは決して良い生活を送ってきたわけではなく本来ならまともに音楽活動をできるような状態ではなかったのですが、友人の助けにより苦難を超えてこれたと思うので人間関係は大事だと感じました。

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過去の賢者達 リスト編

どうもインターン生の坂本です。
今回はフランツ・リストという音楽家を紹介したいと思います。

リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなしたという逸話があるほどの技巧派ピアニストですね。

その技巧と音楽性から「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていたらしいですw
彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われているそうですね。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1811年10月22日にオーストリアで生まれました。

父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていました。
リストは、1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事します。

1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしましたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否されました。

1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えていくようになります。
教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となってしまいます。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残っています。また多くの女性と恋愛関係を結んでいました。
特に、マリー・ダグー伯爵夫人と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送ります。2人の間には3人の子供が産まれました。
リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられていました。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在しています。
そして1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなりました。

ここまでやって思うのは芸術家の人は若いうちに親をなくしている人が多いですね。
ピアノで生計をたてるには技術が必須になってくるので必死に練習し苦難を乗り越えたんだと思いましたね

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過去の賢者達 ユトリロ編

どうもインターン生の坂本です。
今回はモーリス・ユトリロです。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1883年12月26日パリで生まれました。彼が生まれた時母親はすでに既に画家として活動していた為、ユトリロの世話は祖母に任せていた。ちなみに父親が誰かはわからないそうです。しかし祖母は酒好きでこのころからユトリロは飲酒していたそうです。

ユトリロが2歳の時癲癇(てんかん)という神経疾患の発作に見舞われ、その後も後遺症が残ったそうです。ちなみにユトリロは最初は「モーリス・ヴァラドン」という名前でしたが、7歳の時スペイン人ジャーナリストの「ミゲル・ユトリロ・イ・モルリウス」がモーリスを自分の息子として認知した為、「モーリス・ヴァラドン」から「モーリス・ユトリロ」と改名しました。
ユトリロが8歳のとき母親は息子を精神病のため病院へ連れて行きます。

1894年半ばから母親は布地商であるポール・ムジスと同棲し結婚します。

ユトリロは中学校に入学し、優秀な成績を収めていたが、問題を多々起こし中学を退学します。
1900年から色々な仕事をするがユトリロの性格の問題とアルコール依存の影響で暴力が増え引っ越さなくてはならなくなります。
1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街に引っ越します。この頃から水彩画を描く練習を始めたそうです。

1904年ポール・ムジスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院します。そして5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、絵を描き始め画家になることを決意したそうです。
1909年翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れます。

1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会でした。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋でした。
またこの時期母親は離婚します。

そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することになります。一時期ユトリロは石膏採掘場に労働に行ったが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になります。
また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとしました。そしてモンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。

1910年に「ノルヴァン通り」という絵が描かれました。明らかに白が強調されている絵でした。ここから「白の時代」と言われユトリロの絶頂期となります。

1912年にユトリロの絵画の価値が急上昇します。
1913年ユトリロ最初の個展を開催しました。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を展示しましたが、この展示会は失敗しました。
しかし、1919年12月に再び個展を開きこれは大成功します。

1921年には、母バラドン、と共に個展を開くなど裕福な環境におかれますが、軽犯罪を起こし刑務所に収監されます。
息子を出所させるため身元を引き取りにいくとユトリロを釈放するには刑務所での生活と同じような生活になる条件を母親にだされます。
例えば金銭を渡さない、責任を持って監視する、行動を把握するなど

その後ユトリロには城が買い与えられそこで生活を送るようになりました。

1933年ユトリロは入信します。その後彼が描く絵は色彩豊かになっていきます。

そして1935年ベルギーの企業家の未亡人と結婚します。この出来事はユトリロ自信大変喜んでいたそうです。
しかし1938年、母シュザンヌが亡くなりました。モーリスはあまりのショックで母の葬儀に
参列することが出来なかったそうです。

その後1955年、モンマルトルに移住します
またこの年、モーリス・ユトリロはパリ名誉市民となりました。
しかし、11月5日、旅先のホテルで肺充血により亡くなりました。

波乱万丈な人生を歩み色々な事件を起こし多くの人から嫌われていたユトリロですが、自分のやるべきことをやり続け極めたことにより最後は多くの人に認められ歴史に名を刻むまでになったその人生はこれから先自分の進むべき道が分からなくなったときの指標になると思いました。

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過去の賢者達 ゴーギャン編

どうもインターン生の坂本です。
今回は、ゴーギャンについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介します。

1848年6月7日にパリで生まれました。この年は「2月革命」が起こった年です。ちなみに2月革命とはフランスで起こった革命です。
1851年ナポレオン3世のクーデターにより父親職を失ってしまいます。そして家族でペルーに向かうのですが航海中に父親が急死してしまいます。
そのため、残された家族は祖父を頼り過ごしていました。ゴーギャンが7歳の時父方の祖父を頼りオルレアンで生活するようになりました。オルレアンで生活するうちにゴーギャンはフランス語を身につけました。

ゴーギャンが13歳の時、パリの海軍予備校に入学しようとするが、受験に失敗します。それなので商船見習いになり世界の海をめぐるようになりますが、1867年母親が亡くなります。しかし、ゴーギャンには亡くなったことはすぐには知らされず、数ヶ月後インドで、姉からの知らせで知ります。
 
 1868年から2年間フランス海軍に入隊し、その後株式仲買人として働き、実業家として成功し、また絵画取引でも成功しました。その株式仲買人としての仕事を始めたころからゴーギャンは暇を見つけては絵を描くようになりました。

1873年ゴーギャンはデンマーク女性と結婚します。そして5人の子供を授かります。
株式仲買人としての仕事を始めたころからゴーギャンは暇を見つけては絵を描くようになりました。またその時期にカミュー・ピサロと知り合い一緒に活動するようになったり、ピサロを通じて色々な画家と交流を持つようになりました。その後印象派展に絵をだすなどの活動をしました。

1882年パリの株式市場が大暴落し、また、ゴーギャンから絵を買い入れていた顧客も恐慌の影響を受け買い付けを停止したのでゴーギャンの収入は急減しました。その後ゴーギャンは絵画を本業とすることを考え始めます。

その後も、住まいを移し新しい事業を始めるなどの生活の建て直しを図りますが、失敗し、1885年息子をつれパリに戻り妻や知人の助けにより生活していました。画家として生計を建てようとしますが、困窮して雇われ仕事などをしていました。

1886年に最後の印象派展となった第8回展に出品しました。それには当初の印象派メンバーは出品しておらず、若き画家たちが多く出品しました

この時より新たな時代の「後期印象派」が始まったと言われます。ゴーギャンも独自の表現を求めて活動する時期が始まりました。
このころフィンセント・ファン・ゴッホと出会います。そしてゴッホと共同生活を送るなどゴーギャンにとって刺激的な時期だと思います。しかし、次第にゴッホとの関係性が悪化し9週間で共同生活は終わったという。
ちなみにゴーギャンの回想によればゴッホが剃刀をもって襲ってきたという出来事がありその晩ゴッホは左耳を失ったそうです。
その後二人は文通だけの関係になり会うことはなかったそうです。

1891年から本格的にタヒチに渡り精力的に活動を始めました。独自の表現を追及する中で、「野生」と「情熱」という表現したい明確な対象が出来たことで南国への憧れが強くなっていました。
同年2月には旅行費を稼ぐ為に自身の作品を競売にかけてたそうです。その2ヶ月旅立ち、6月にタヒチに到着しました。一年間滞在し、帰国後パリでタチヒで制作した作品を展示しました。

1894年頃妻との破局が決定的になり破局しました。
1895年再びタヒチに向かうべく、2月に47点の作品を競売にかけ旅行費を工面しようとしました。
しかし、売れたのは9点のみであった。
ゴーギャンは失意の中でタヒチに旅立ち、9月にパペーナに到着した。
タヒチで出会ったパウラという14歳の少女と同棲を始め、妻にし男の子と女の子が出来るが、女の子の方はすぐに亡くなってしまいました。
また、その翌年には長女アリーヌの死の知らせを聞き、立て続けの不幸により体調が悪化しました。
この精神的、肉体的な苦痛を作品にぶつけた「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか」を12月に制作した。この頃、砒素を飲んで自殺を図っていることから「我々はどこから来たのか・・・」はゴーギャンの遺書的な作品であるとされている。

1901年9月にタヒチを離れマルケサス諸島のヒバ・オア島に住み始めました。ここで新たな家を建て、自身の芸術を最終段階まで完成させる為に活動を続けていた。またここでもゴーギャンは現地の14歳の少女を妻とし子供を一人授かりました。

その後、島の国家憲兵や部下の汚職や無能力を告発しようとしたが名誉棄損で禁固刑と罰金を宣告されるなど苦悩の日々は続いていきまた、体調がどんどん悪化していきました。
禁固刑が宣言された1903年3月に控訴の準備を始めていたが、その2か月後の5月8日に突然倒れそのまま死去した。54歳であった。

ゴーギャンの死亡の知らせは1903年8月23日までフランスに届くことなく、財産などは9月5日の競売にかけられ処分された事で、ゴーギャンの晩年の記録が失われてしまったと言われています。

若いときに成功と挫折を経験しさまざまな人生経験を得たゴーギャンは成功を知っていたからこそ返り咲きたい気持ちが強かったと思いますし、苦難を抜けるため絵画に打ち込み続け、自分へプラスになると思ったらどこへでもいくゴーギャンのその行動力が成功へつながったのかなと考えました。

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過去の賢者達 ロートレック編

どうもインターン生の坂本です。
今回はフランスの画家のアンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックについて紹介したいと思います。

それでは簡単な来歴を紹介したいと思います。

ロートレックは1864年アルビで生まれました。ロートレックの家はフランスの名家であったそうです。
ロートレックが8歳の時両親の不仲により母親と共にパリに住むようになります。そこで彼は絵を描き始めます。その絵を見た母親はロートレックに才能があると思い父親の友人の画家に紹介しレッスンを受けるようになります。

しかし、13歳の時客間で転倒し左足の大腿骨を骨折。14歳に散歩中に中溝に落ち右足の大腿骨を骨折してしまいす。そのせいで成人しても胴体は正常だが脚は子供のままになり身長152cmに過ぎなかった。病気によりアルビに戻ったが、父親には疎まれ寂しい青春を送った。そのときロートレックは自分の存在意義を示す為絵に没頭したそうです。

1882年ロートレックはパリに出て画塾で絵を学びます。そして彼が24歳の時ブリュッセルの20人展に出展します。またその翌年にはロートレック展を開きました。
そして27歳「ムーラン・ルージュ」を制作します。その後制作と旅で多忙な日々を過ごすようになります。

1897年フロショ通りに新しいアトリエを構えました。その時からポスターの制作を辞めて、石版画に熱中するようになります。

しかし、このころからロートレックの飲酒が深くなっていきました。その後彼はアルコール中毒が原因で発作を起こします。彼を治療する為に彼の母親は彼を拉致し、精神病院に入れました。自分が正常であることをアピールし退院したいロートレックは、入院中記憶で「サーカス」を制作し見事退院します。

しかし、退院後再び飲酒をはじめ1901年ついに脳出血により死亡してしまった。
彼の最後の言葉は「馬鹿な年寄りめ」という父親へ対しての言葉だったそうです。

最後の言葉から考えるに、ロートレックは最後の最後まで父親に認めてもらいたかったのかなと思いました。

彼のように自分の存在意義を示す為や、父親に認めてもらうために一つのことに熱中して身体的ハンディーキャップなどを跳ね返すような気概は見習わなくてはならないなと思いました。

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過去賢者達 フリーダ編 記事 過去の賢者達

どうもインターン生の坂本です。
今回はフリーダ・カーロというメキシコの女性画家を紹介したいと思います。

彼女はメキシコの有名な画家ですね。

それでは簡単な来歴を紹介したいと思います。

フリーダは1907年7月6日メキシコシティの近郊にあるコヨアカンに生まれます。
普通の生活をしていたのですがメキシコ革命の勃発により生活が厳しくなります。そしてフリーダが6歳の時、急性灰白隨炎というウイルス感染症にかかり9か月寝たきりの生活を送っていました。この影響で右腿から踝にかけて成長が止まりやせ細ってしまい、それをよくするため、色々なスポーツをしたが元に戻ることはなかったそうです。

そんな彼女をリハビリを兼ねて父親は良くハイキングに連れていき、父親の趣味であった水彩画やカメラをフリーダに教えていたそうです。その後メキシコの最高教育機関の国立予科高等学校へ進学し、父親の友人の広告デザイナーにスケッチを習い画家を目指すようになりました。
 しかし、1925年9月、バスでの通学中路面電車とバスが衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生しました。
フリーダも生死をさまよう重症で、3か月の間ベッドから動けませんでした。その痛みと暇を忘れるために本格的な絵を描くようになったそうです。

1928年フリーダはメキシコ共産党へ入党します。そこで夫となるディエゴ・リベラと出会います。そこでお互いに作品を見せ合い互いに感銘をうけた二人は結婚します。しかし、フリーダは2度妊娠しますが事故の影響で2度とも流産します。また、夫のリベラが妹のクリスティナと関係を持ち大きな心理的負担をもちます。

ちなみにこの年に発表した「ちょっとした刺し傷」はこのときの感情がでて、グロいですねw

1938年大規模な個展を海外で開きます。そこで高評価を得られたフリーダはニューヨークで再び個展を開き、絵の注文が多々舞い込むようになりました。しかし、フリーダの成功と多忙な日々により夫婦仲は崩れ1939年離婚が成立した。そして作品制作に没頭していたが真菌性皮膚疾患にかかったため作品制作が続けられなくなりました。
その後健康状態が安定した頃、フリーダは再びリベラと再婚しました。またこの年からメキシコ内でフリーダは有名になり、様々な賞を受賞し、複数の委員会に選出され、講師の仕事や雑誌の寄稿などが求められた。

しかし、健康上の理由により学校に通うことが困難になったフリーダは才能ある生徒を抜擢し絵の指導に尽力しました。
1940年代後半からフリーダの健康状態はさらに悪化していき、壊死したので指を切り、鎮痛剤では抑えられない痛みが右足を襲ったので、右足を切断しと治療を繰り返すが1954年肺炎を併発して亡くなりました。

彼女のように若いうちから身体的不幸が多く降りかかっても作品制作に没頭できるような忍耐力と精神力。また、その時の感情、痛み、苦痛などを作品に投影するスタンスは尊敬しなくてはなりませんね。
それではお付き合いありがとうございました。

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過去の賢者達 ベートーヴェン編

こんにちは。インターン生の坂本です。
今回は画家ではなく音楽家のベートーヴェンを紹介していきたいと思います。

 皆さんベートーヴェンという名前は音楽の授業などで聞いたことがあると思います。音楽家の中で五本指に入るほど有名なかたですね。
そんな彼でも若い時にさまざまな困難にぶつかります。それでは簡単な来歴を紹介します。

 1770年12月神聖ローマ帝国のボン(地名)で生まれます。ちなみに神聖ローマ帝国とは現在でいうとドイツ、オーストリア、チェコ、イタリアの北部に存在国家ですね。ボンは今ですとドイツにあたります。
ベートーヴェンの祖父は宮廷歌手であり、父親も歌手であったのですが、家計は祖父に頼っていました。しかし、1773年に祖父が他界してからは6歳で宮廷演奏で名を馳せていたモーツァルトのようにするために、父親に音楽のスパルタ教育を受けます。そして10歳になるころにはベートーヴェンが家計を支えるようになっていました。

 1787年ウィーンを訪れ、尊敬していたモーツァルトを訪問するが、母親の体調が悪化しボンに帰ります。しかし、その後母親は他界してしまいます。そしてその後、家族の世話に追われる日々をすごします。
そんな彼にも人生の転機が訪れます。1792年ボンに立ち寄った「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」という作曲家に才能を認められ弟子入りし、ウィーンに移住し、そしてついにピアノの即興演奏の名手として有名になりました。
 だがしかし、また次なる苦難が彼に訪れます。20歳の頃より持病の難聴が悪化し始め28歳のときについにほとんど聞こえなくなってしまいます。このときベートヴェンは遺書まで残し自殺を考えますが音楽への情熱でこの苦難を乗り越えます。

 その6年後1804年交響曲3番を発表してから1814年までの10年間は「傑作の森」と呼ばれ、「エロイカ」「運命」などの多くの名作を生みました。ちなみにこの時期に作曲した曲はベートーヴェンが生涯作曲した楽曲の半数を占めるほどの量だったそうです。

 また40代になると全く音が聞こえなくなり持病に苦しめられながらも「交響曲第9番」や「ミサ・ソレムニス」を作曲しました。
そして1826年12月に肺炎を患い、翌年3月肝硬変により他界しました。最後にベートーヴェンは「諸君喝采を。喜劇の終わりだ」とつぶやいたそうです。

 このように歴史に名を残す人は何かしらの苦悩などを抱えている場合が多いですね。しかしベートーヴェンのように取り組んでいる事への情熱だとか愛情が苦難を乗り越える上で大事だと思いました。

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