ラファエロの履歴書

こんにちは今回は三回目になります。

今日ご紹介するのはラファエロです。彼はダヴィンチ、ミケランジェロと並ぶ巨匠の一人です。

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ダヴィンチが様々な場所や仕事を転々とする放浪タイプだったとしたら、ミケランジェロは職人タイプ。そしてラファエロは若手の社長タイプです。

ラファエロの父は宮廷画家でした。ラファエロの才能を早くに見抜いて、8歳でペルジーノ工房に弟子入りさせます。ペルジーノもラファエロを高く評価し、十代になったラファエロを助手として使い、そこでラファエロはペルジーノの技術をおおいに吸収しました。このときからすでにラファエロは個人で絵画の制作の注文を多く受けていました。

20代になったラファエロは突然放浪の旅に出ます。その間様々な場所で絵画を描き1508年ローマに行きつくまでの4年間そのような暮らしを続けました。

ローマ教皇からヴァチカン宮殿の図書室の制作の依頼を受けたラファエロはすぐに制作に取り掛かります。この絵が有名な「アテナイの学堂」です。ラファエロの絵にローマ教皇に大変喜び、ほかの画家が描いていた絵も上書きするようにいわれます。この仕事を期にラファエロは拠点をローマに移して活動をはじめます。

さて、ラファエロは依頼された仕事をかなりはやく完成させることで当時人気だったようです。その秘密は彼が率いていた工房にあります。ラファエロは50名に及ぶ弟子や助手を抱えており、このラファエロの工房は当時最大規模のものでした。、弟子の中には既に画家として活躍しているものや、イタリアで名声を得ていた者もおり、他の工房と比べても技術水準も抜きんでていました。完全効率的な分業が行われており、ローマ教皇から頼まれたヴァチカン宮殿の図書室の壁画は工房と共に行い、後半はほとんど工房に任せっきりでした。

ラファエロは弟子や助手と協調し、問題点をまとめ、やパトロンともうまく話をつけ、工房の経営も効率的に行っていたといいます。極めてリーダーシップに優れていた人物だったようです。

ラファエロは下書きを描いて、ほとんどラファエロの工房に任せていました。しかし楽をしているわけではなく、工房の作業工程で最も長かったのがラファエロが下書きを描くまでだったといわれていました。

ラファエロは工房の運営だけでなくローマ教皇の「近侍」の地位についておりこれは高い年俸と地位の伴うものでした。ローマ教皇黄金拍車勲章とナイトの爵位もっていました。ラファエロはさらに高い地位である「枢機卿」になろうとしていたようです。残念ながらその野望が叶う前に37歳の誕生日に夭折してしまいます。

卓越した絵の腕だけではなく、リーダーシップ、企画力、経営力の才能がありそして野心をもった芸術家がラファエロです。まさにやり手の社長タイプといえるでしょう。

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「万能人」の働き方

こんにちはインターン生の野中です。

第二回はダヴィンチと同じ時代に生きた芸術家、ミケランジェロのお話をします。彼は同じ芸術家でありながら、ダヴィンチとはまた違った働き方をしています。

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ミケランジェロ『ダヴィデ像』や『システィーナ礼拝堂天井画』で有名な芸術家です。彼は彫刻、絵画、建築、で類い稀なる才能を発揮し「万能人」と呼ばれていました。

そんなミケランジェロを有名にしたのが当時フィレンツェで大きな力を持っていたメディチ家でした。メディチ家は銀行家の一族で極めて強い力を持っていました。メディチ家の当主ロレンツォ公は、早くも少年ミケランジェロの才能を見抜いて、病没する1492年まで自分の屋敷にミケランジェロはを寄宿させました。

メディチ家はその後彼に何度も多き仕事を依頼します。当時芸術家にはパトロンが付くのが普通でした。パトロンの依頼を受けて制作をし、材料や寝床も面倒を見てくれるのでした。メディチ家はパトロンの中でも最も影響力を持っていました。多くの芸術家を養っておりミケランジェロもその一人でした。

しかし、メディチ家が衰退し国外へ追いやられるとミケランジェロの仕事は激減します。国外へ逃亡したメディチ家からしか仕事がない状態が続きます。それをきっかけにローマへ移り住むと国内だけでなくフィレンツェ、ローマ、フランスとグローバルに仕事を展開します。その活躍ぶりはローマ教皇にも耳に入ります。このローマ教皇は『システィーナ礼拝堂天井絵』の制作を依頼します。しかし頼まれた本人は墓石の石彫をしたかったらしく、快く引き受けた訳ではなかったようです。しかし、ローマ教皇の依頼となると半ば強制的に仕事を引き受けなければなりませんでした。結局8年近くかかってようやく完成させました。

ミケランジェロは長命で88歳まで、現役で活躍し続けました。

ミケランジェロはダヴィンチと違い、メディチ家やローマ教皇などコネをに頼っていました。当時は誰かの庇護の下で働くことが普通でした。しかし晩年はあまりに仕事を引き受けすぎて、途中で仕事を断念しなくてはならなくなっています。また、ミケランジェロは贅沢に興味がなかったようで質素な暮らしを送っていたといいます。まさにワーカーホリックで、仕事に人生を捧げた人でした。

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ダヴィンチの履歴書

初めましてインターン生の野中と申します。大学では絵画を学んでいました。

さて、美術家というと皆さん何を想像しますか?偏屈とか変人、そういったところですよね。じゃあ実際職業としてはどうなのか様々な歴史に名を残すアーティストの働き方を交えながら紹介していきたいと思います。

第一回はかの有名な美術家。レオナルド・ダヴィンチさん!
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彼を知らない人はまずいないでしょう。

万物の天才といわれた彼は美術だけでなく音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野で重要な発見をしました。「万物の天才」といわれた彼はいったいどんな働き方をしていたのでしょうか?

彼ははじめ芸術家として出発します。14歳の時工房に弟子入りし絵を学びます。このころから芸術家として頭角を現し、20歳になると工房の親方になります。さて、この間レオナルドは工房仲間のボッティチェリと食堂を経営していたことがあるそうです。ボッティチェリも巨匠の一人で「ビーナスの誕生」で有名な画家です。この若かりし頃の二大巨匠が経営していた「Tre Ranocchie ( 三匹の蛙)」という食堂は残念ながらすぐに閉店してしまったそうです。

さて、その後ダヴィンチは工房を辞め、教会などの依頼を受けて個人で壁画や油絵を制作をするようになります。しかしレオナルドは仕事を途中で放り出してしまいます。

30歳のときに仕事を探し、ミラノに渡ったダヴィンチはミラノ公爵に画家ではなく、軍事エンジニアとして自分を売り込みます。レオナルドは実際にミラノとヴェネチアの戦争の時に敵の侵入を防ぐ回転する橋を作りました。その後ローマ公王の息子チュザーレに自身を売り込み軍事顧問兼技術者としてイタリア中を回り要塞や地図を作ります。この地図の完成度が素晴らしく、他には類を見ないほどの完成度だったそうです。

晩年はレオナルドはにフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の城の近くにあるクルーの館が邸宅として与えられました。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子や友人たちとともに静かにそこで過ごしたそうです。

レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードになるそうです。スクードといわれてもピンと来ないでしょう。なんとこの金額は日本円でおよそ二億円ほどになります。うらやましい年金生活ですね。

芸術家……というより彼は軍事関係で財産を築いた人でした。彼の人生はまさにやりたいことを全部やったような人生ですね。彼は好奇心旺盛で飽き性だったためかどこか一つの場所に留まるのではなく様々な場所を転々としました。それでも彼が生きていけたのはやはり彼が天才だったからだと思います。

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