過去の賢者達 ムンク編

はじめまして。インターンシップに参加させていただいている坂本と申します。
学校では主にイラストをメインに学ばせてもらってます。

それでは私が初めて書く記事で紹介させていただくのは「エドヴァルド・ムンク」さんです。

この人の代表作は「叫び」「マドンナ」などの代表作がありますが、この人の絵に恐怖心や禍々しさを感じるのは彼の少年時代の出来事が関係してると私は思うんですよね。
それではこの人の簡単な来歴を紹介します。

ムンクは1863年12月12日にノルウェーのロイテンにて生まれたのですが、ムンクが若干5歳の時に母は長女、次男、次女、三女を残し病気で他界します。そして不幸なことに、その9年後ムンクが14歳の時長女も亡くなってしまいます。このように若い頃から身近に死を感じていたムンクが描く芸術に暗い印象を抱くのは必然といえるでしょう。

その後技師になるために通っていたクリスチャニア工業学校に通っていたが、1880年リューマチ熱の影響で退学しました。しかし、その同年ノルウェー王立絵画学校の夜間コースに入学します。
その後ムンクは「ストーブに火をつける少女」、「朝」を秋季展というノルウェーのオスロで毎年開かれる美術展に出すが酷評されてしまいます。
その後ムンクは奨学金が与えられパリで一年間デッサンを学ぶのですが、その年の12月ムンクの父親が亡くなります。そのような悲しい出来事を経て「生命のフリーズ」というフリーズの装飾のように自分の作品をいくつかのテーマで結びつけるという構想を起こしそして1899年ついに代表作である「叫び」などを含む生命のフリーズを完成させました。

また、ムンクは美少年だったのですが不倫ばかりし、嫉妬と不安に苛まれる道を選んでいたそうですね。そういった感情も「嫉妬」とかに見られるきがしますね。

このように親族の死を若いときから経験してきたムンクにしかあの味は出せないのだろうと思いますし、またそのような悲しみの人生でなおかつ人に批判されてもなお自分の絵を貫き通したからこそ誰もが知っている名画を残せたのだと私は思います。

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岡本太郎の履歴書


インターン生の野中です。今日で最終回になります。今回紹介するのは日本の美術をぶっ壊し再発見した「岡本太郎」です。

岡本太郎の父、一平は朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を博し「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名でしたが、放蕩癖があり、家の電気を止められてしまうこともありました。

母、かの子は、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だったといいます。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがあるほどでした。

そんな芸術家一家に生まれた太郎は、周りとうまくなじめず小学校を転入転校を繰り返します。絵は好きで昔からたくさん描いていたそうです。美術の道を決めたのは高校を卒業したとき、東京美術学校へ進学します。

父が仕事でパリに行くのに岡本太郎も休学し一緒に行きます。パリでフランス語を学びながら、パリ大学で美術と民俗学を学びます。21才のとき両親は先に日本に帰国し岡本太郎は8年間一人パリに残ります。1940年戦争がはじまると岡本太郎は日本に戻り、軍隊に入ります。

戦争が終わると様々な岡本太郎は今までにないようなアバンギャンドルな作品を発表し人気を集めます。

岡本太郎は、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ました。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになりました。おなじように琉球諸島や東北地方の日本の古い文化や伝統を再発見し広く紹介することに尽力します。岡本太郎はTVに多く出演したことでもしられています。多くのバラエティーやクイズ番組に出て、「芸術は爆発だ!」などの名言を残しました。

岡本太郎の特筆すべき点は様々なグッズ制作に関わったことでした。有名なものだとグラスやネクタイ、コイのぼり、企業のシンボルなどプロダクトデザインを手がけたことです。当時画家としては珍しいことでした。岡本太郎は絵だけでなく、新しい画家の商業展開の仕方も提案したのでした。

芸術家の生き様いかがだったでしょうか。今まで紹介した画家には共通していることがあります。芸術家として生きるのはいつの時代でも難しいことです。しかしどんなに辛くても絵を描くことを諦めなかったことです。諦めないことは成功を収める上で一番重要なことかもしれません。

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マグリットの履歴書

こんにちはインターン生の野中です。残念ながら明日で最後になります。
今日まで紹介した画家は根っからのアーティストでした。しかし中にはもっと普通の暮らし方をした人もいました。

マグリットは1898年、ベルギー西部のレシーヌに生まれました。一家はマグリットの生まれた翌年にはジリという町に移り、1904年シャルルロワ近郊のシャトレに移る。少年時代の大部分をシャトレで過ごした。マグリットが13歳のとき母が原因不明の入水自殺をとげるという事件がありました。これは少年マグリットにとっては当然のことながら大きな衝撃を与えました。

12歳の頃から油絵を学んでいたマグリットは1916年ブリュッセルの美術学校に入学しました。卒業後は兵役につき、1922年から翌年までは生活のため壁紙工場で図案工をしてキャベツやバラの図案を描いていました。その後は1926年まで広告デザインの仕事をしています。商業的な活動が多かったようです。

1926年、マグリットはCentaure画廊と専属契約を結ぶことに成功し、画業に専念することが出来るようになりました。翌年画廊ではじめての個展を開催します。しかしながら、あまり評判を得ることは出来ませんでした。

 働かなくても絵の収入で暮らせるようになったマグリットは、この年ブリュッセルから憧れのパリへと旅立ちます。パリでは、多くのシュールレアリストたちと友達になりました。このことがのちの作風に影響を与えます。
ところがせっかく契約できたCentaure画廊が潰れてしまい、生活費が無くなってしまいました。やむなく、マグリットは翌年にブリュッセルへと帰ることにしました。ブリュッセルに戻ったマグリットは、弟のポールと広告代理店をはじめました。

マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルでは客間、寝室、食堂、台所からなる、日本式に言えば3LDKのつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民でした。残されているマグリットの写真は、常にスーツにネクタイ姿で、実際にこの服装で絵を描いていたそうです。彼は専用のアトリエは持たず、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたいました。制作は手際がよく、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることはなかったといいます。

彼は「サラリーマンタイプ」かれは広告などの商業をして、生計を立てていました。絵画だけで活躍しようとしていた他の画家とは違って、現実的で平凡な生活をしていました。しかし彼の描く作品は不思議な世界で普通ではありません。そのギャップに惹かれるのかもしれませんね。

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レオナールド・フジタの履歴書

最近猫ブームで猫を描く作家が売れていますね。ヒグチユウコとかまさにそうですね。

さて、猫ブームで新しく現れた作家もいれば再びスポットライトの当たる作家もいます。

レオナールドフジタ。海外では絶賛されたにもかかわらず、日本では「忘れられた画家」と呼ばれた作家です。
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1886年(明治19年)東京市牛込区、現在の東京都新宿区の新小川町の4人兄弟の末っ子として生まれます。父は陸軍軍医で森鴎外の後任として陸軍軍医総監督まで昇進した人物でした。

フジタは子供の頃から絵を描き始めます。高校を卒業するころには画家を志しフランス留学を希望します。

森鴎外の勧めもあったことから1905年東京美術学校の西洋画科に入学します。しかし当時の写実的な絵ばかりを追求する美術学校の方針に失望し、観劇や旅行と授業を抜け出しては同級生と遊びまわりました。1910年に卒業し。大学在学中に出会った講師と結婚します。しかしフランス留学を夢見ていたフジタは結婚から一年と間を置かずして、パリへ向かい、結婚は破城してしまいます。

1913年(大正2年)パリに渡仏したフジタは、家賃の安いモンパルナスに居を構えます。当時モンパルナスにはたくさんの芸術家が住んでおり、様々な画家と知り合いますこのとき出会ったパブロ・ピカソとは晩年まで親友として付き合いがありました。また、当時フランスにいた薩摩治郎八、とも知り合います。治郎八は一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫でした。彼はパトロンとしてフジタを経済的に支えます。こkでフジタは様々な作家から刺激を受け、衝撃を受けたフジタは今までの画風をすべて捨て、再出発することをけついしました。

ところが、1914年パリで生活を初めて1年後に第一次世界大戦が始まってしまいます。のちに世界初の近代戦争といわれるこの戦争はヨーロッパ中を大混乱させます。

日本からの送金は途絶え、戦時下では絵など売れず、極貧生活を余儀なくされます。食事にも困るような生活でフジタは寒さのあまり自分の絵を燃やして暖を取ったといいます。そんな生活を2年も続けていると、いよいよ戦争にも終結が見えてきます。1917年このときフジタはカフェで出会ったフランス人モデルのフィルナンドと二度目の結婚をします。

このころ初めて絵が売れ7フランと決して高くはないですが収入を得ます。それから徐々に絵が売れ始め三か月後には個展をするまでになります。この個展でも高い評価を受け絵が売れるようになります。翌年1918年戦争が終わり、終戦の好景気でパリに多くのパトロンが戻ってており、このことがさらにフジタの追い風となります。

フジタの名声は絶頂まで高まり、始めは7フランしかつかなかった絵も、8000フラン以上で取引されるようになりました。

しかし、フェルナンドとは不倫が原因で離婚し、また新たに結婚した女性ともすぐに離婚してしまいます。二年後フジタは日本に一度帰国し、パリに戻りましたが第二次世界大戦がはじまってしまいます。

日本に貢献したいと考えたフジタはパリを離れ、日本に帰国し従軍画家として戦争画を多く手掛けます。しかしこれは失敗でした。終戦後フジタは戦争批判を受けます。さらにGHQにも追われるようになり、日本に嫌気がさしたフジタは日本を去り、生涯日本に再び帰ることはありませんでした。

フジタがフランスに戻ったとき、既に多くの親友画家が戦争で命を落とすか、外国に亡命しており、フジタ自身もマスコミから「亡霊」といわれる有様でした。

晩年フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けてレオナルド・ダ・ヴィンチの名前から取ったレオナール・フジタと名前を変えました。
 この時期、子供がいなかったフジタは多くの子供を描きいていました。そしてフジタはパリを離れて隠やかな生活を送っていました。フジタは学校帰りの子供たちと語らうのを何より楽しみにしていたといいいます。

フジタは才能があり、人脈もありました。しかし時代が悪かったせいで二度の戦争に巻き込まれてしまいます。第一次大戦のときはどんなにつらい生活でも決して日本に帰ろうとしませんでした。尊敬に値すると思います。彼は「グローバルタイプ」国内だけでなく海外に目を向けた画家でした。

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ゴーギャンの履歴書

インターン生の野中です。今回で7回目。

先日、上野国立博物館で「ゴッホとゴーギャン展」が開催されることを知りました。ついこの間ゴッホの話を書いたばかりだったので今日はポール・ゴーギャンの紹介をしていきたいと思います。

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彼は1848年にパリに生まれます。父は共和主義のジャーナリストでした。しかしナポレオン3世のクーデターで職を失ってしまいます。一家はパリを離れてペルーに向かいます。ところがその航海中に父が急死してしまいます。残されたポールと母と姉は、リマに住む叔父を頼ることになり、ポールが7歳の時に、一家はフランスに戻ります。このときスペイン語で育ってきたポールはフランス語を身に付けました

ポールは地元の高校に通い、その後カトリック系の寄宿舎学校に三年間通い続けます。14歳の時に海軍予備学校に通い、卒業後は商船の水先人見習になります。もしかすると航行中に亡くなった父へなにかしら思いがあったのかもしれませんね。

三年後、ポールはフランス海軍に入隊します。二年間勤務したのち、知人の口利きによってパリ証券取引所に転職し、株式仲買人として働きはじめます。その後11年間で彼は実業家として成功を収め28歳で年収3万フラン(およそ60万円)と絵画取引でも同じくらいの収入を得ていたそうです。

株式仲買人として成功した彼は余暇に絵を描くようになります。パリには画家の集まるカフェも多くポールは画廊を巡ったり、画家の作品を買ったり、著名な画家と一緒に絵を描いたりします。つまりはゴーギャンは仕事の息抜きをする趣味として絵を描き始めました。

ところが1882年ポール34歳のときにパリの株式市場が大暴落してしまいます。絵画市場も大打撃を受けて、ゴーギャンの絵画取引は買主がいなくなったことで停止してしまいます。

収入の激減したポールは画家として生きていくことを考え始めます。

ポールは画家として生計を立てていこうと決意しましたがやはり、現実は厳しく、困窮してしまいます。雑多な仕事をしながら、妻の収入で何とか生活していきます。株式仲買人をしていたころとは一変して生活は貧しくなってしまいます。

1888年ポールはゴッホと共同生活をしています。9週間ほどで終わってしまったこの共同生活の後もポールはゴッホを本当に友人だと思い文通をよくしていたそうです。

文明の進んだヨーロッパ社会に疲れてしまったポールはタヒチに旅行を決めます。タヒチは彼の人生に大きな影響を与えます。

彼はタヒチの文明に汚染されていないところを気に入りタヒチをテーマに絵を描きます。しかしヨーロッパではほとんど評価を得られませんでした。

妻とも離婚したポールはタヒチに移り住み晩年までそこで絵を描き続けることになりました。

彼は株式仲買人という文明的な仕事から画家に転職した「脱サラ」タイプの画家でした。ポール・ゴーギャンが再評価されたのは遅く、死後でした。生前はほとんど評価されずなかなか恵まれない人生を送ります。しかし彼が現代のアートの先駆けとなったことは間違いないのでした。

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ゴッホの履歴書

インターン生の野中です。今回で6回目になりました。

今回紹介するのは日本でも人気の高い画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」です。彼は印象派の中で最も有名なオランダの画家です。小惑星の中には「フィンセント・ファン・ゴッホ」の名前を付けられたものもあります。20世紀の美術に多大な影響を与えた彼はいったいどんな人物だったのでしょうか。「狂気の画家」といわれる彼の生涯を紹介したいと思います

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ゴッホは1853年オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれました。16歳のときから、画商グーピル商会に勤め始めます。熱心な働きぶりを評価され20歳の時にロンドン支店に栄転。しかしゴッホは少年時代から思い込みが激しく上司やお客との対立し、相思相愛だと思っていた相手にフラれ、仕事への熱意を失った彼は23歳のとき商会を解雇されてしまいます。

その後イギリスで教師として働いたりオランダの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、ゴッホは貧しい人や労働者の為に働きたいとアムステルダムで神学部の受験勉強を始めます。ところが受験勉強の難しさから挫折してしまいます。このときからゴッホの自罰癖が現れます。

しかしその後ベルギーの炭坑地帯で伝道活動を行い、怪我や病気で苦しむ人に献身的に尽くし、身なりも労働者と同じようなみすぼらしい恰好をしていました。その熱心な姿勢が認められて、教会から伝道師の仮免許と月額50フランの俸給をもらうようになります。しかし過酷な労働条件や賃金のカット、労働争議の巻き起こる炭鉱町では、社会に憤ることを説くのではなく、キリストに倣うように説いたゴッホはなかなか受け入れられませんでした。そうしておよそ半年でゴッホの常軌を逸した自罰行為は教会の尊厳を損なうものだと免許状を取り上げてしまいます。

行くあてもなくなり彼は実家に戻り絵を描いて暮らしていました。その暮らしぶりは「年金生活者」のようだったといわれています。毎日外を歩き回り周りの風景や人物をスケッチすることでいつしか画家を目指すことを決意します。27歳でのことです。

以降、オランダのエッテン、ハーグ、ニューネン、ベルギーのアントウェルペンと移り住み、弟のテオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けます。この時期には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の主な作品です。

33歳ごろ、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っていました。。

35歳、南フランスのアルルに移り、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、ポール・ゴーギャンを迎えての共同生活を始めます。最初はよかった関係も、絵の方針の行き違いによって次第に関係は行き詰ってしまいます。、

その年の12月末のゴッホの「耳切り事件」で共同生活は終わりを迎えます。以後、発作に苦しみながら病院への入退院を繰り返しました。最後はサン=レミの精神病院に入院しました。時折ひどい発作が襲う中でも「星月夜」など多くの風景画、人物画を描き続けました。

精神病院を退院してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住みました。ゴッホ47歳。画作を続けましたが自ら銃を撃ち亡くなってしまいます。

ゴッホは成功した画家とはいえません。生涯でほとんど絵は売れなかったそうです。評価されここまで有名になったのは死後です。彼の死後、ほとんどの絵は二束三文で売られてしまったり、塗りつぶされてしまったり、納屋の壁に穴が開いたのを修理するのに使われたそうです。現在であれば安くても一億円はするような絵がそのような末路を辿るのは悲しいことです。

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狩野元信の働き方

インターン生の野中です。今回で四回目になりました。

前回紹介した三人の巨匠、放浪の人ダヴィンチ、職人気質のミケランジェロ、社長タイプのラファエロ。今回紹介するのは彼らと同じ時代に日本で活躍していた「狩野元信」を紹介します。

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狩野派といえば日本で400年間画壇に君臨し続けた職業絵師集団です。彼らは室町時代から江戸末期まで第一線で活躍していました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と名だたる天下人の仕事を請け負っていました。

特に2代目「狩野元信」は400年日本の画壇で活躍し続ける基盤を作った人物です。

元信は当時主流だったモノクロの水墨画と多彩な色を使った大和絵を併せて、新しい描画を確立します。

とくに大徳寺の大仙院に所蔵されている元信筆・四季花鳥図はダイナミックな構図と繊細な描写で、当時の武将たちから気に入られるようになり、注文が殺到します。そうするとどうしても人の手が足りずたくさんの弟子を雇って、様々な作品を量産できるようにしました。

しかし弟子たちは元信に比べると腕は落ちます。そこで元信は絵手本、様々な花や動物、昆虫のモチーフを網羅したマニュアルを作ることで、弟子でも元信と変わらぬ絵を描けるようになりました。これで品質も一定でたくさんの絵を生産できるようにしたのです。

当時の絵師はアーティストではなく、職人であったため、描き手の個性よりも元信と同じ絵が描けることが求められました。元信は自分と同じ絵が描けるような教育システムを作ったのでした。

元信はさらに「狩野派」の経営を固めるためにある事業に乗り出します。それが扇絵です。当時扇は祝い事や慶事を始め、季節のあいさつなどの度に贈る習慣がありました。贈り物として人気だった扇に目をつけ、元信はこれを大量生産します。弟子を活用したこの事業で莫大な儲けを出し、「狩野派」を確かなものにしたのです。

幕府の将軍義政とも近しい仲だった元信は扇の独占契約を結ぶます。扇座という扇制作の独占権を得て元信は絵師としてだけではなく経営者としても活躍します。

大勢の弟子を取り、弟子の教育システムを作り上げた元信は絵画をビジネス化させることに成功しました。

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ラファエロの履歴書

こんにちは今回は三回目になります。

今日ご紹介するのはラファエロです。彼はダヴィンチ、ミケランジェロと並ぶ巨匠の一人です。

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ダヴィンチが様々な場所や仕事を転々とする放浪タイプだったとしたら、ミケランジェロは職人タイプ。そしてラファエロは若手の社長タイプです。

ラファエロの父は宮廷画家でした。ラファエロの才能を早くに見抜いて、8歳でペルジーノ工房に弟子入りさせます。ペルジーノもラファエロを高く評価し、十代になったラファエロを助手として使い、そこでラファエロはペルジーノの技術をおおいに吸収しました。このときからすでにラファエロは個人で絵画の制作の注文を多く受けていました。

20代になったラファエロは突然放浪の旅に出ます。その間様々な場所で絵画を描き1508年ローマに行きつくまでの4年間そのような暮らしを続けました。

ローマ教皇からヴァチカン宮殿の図書室の制作の依頼を受けたラファエロはすぐに制作に取り掛かります。この絵が有名な「アテナイの学堂」です。ラファエロの絵にローマ教皇に大変喜び、ほかの画家が描いていた絵も上書きするようにいわれます。この仕事を期にラファエロは拠点をローマに移して活動をはじめます。

さて、ラファエロは依頼された仕事をかなりはやく完成させることで当時人気だったようです。その秘密は彼が率いていた工房にあります。ラファエロは50名に及ぶ弟子や助手を抱えており、このラファエロの工房は当時最大規模のものでした。、弟子の中には既に画家として活躍しているものや、イタリアで名声を得ていた者もおり、他の工房と比べても技術水準も抜きんでていました。完全効率的な分業が行われており、ローマ教皇から頼まれたヴァチカン宮殿の図書室の壁画は工房と共に行い、後半はほとんど工房に任せっきりでした。

ラファエロは弟子や助手と協調し、問題点をまとめ、やパトロンともうまく話をつけ、工房の経営も効率的に行っていたといいます。極めてリーダーシップに優れていた人物だったようです。

ラファエロは下書きを描いて、ほとんどラファエロの工房に任せていました。しかし楽をしているわけではなく、工房の作業工程で最も長かったのがラファエロが下書きを描くまでだったといわれていました。

ラファエロは工房の運営だけでなくローマ教皇の「近侍」の地位についておりこれは高い年俸と地位の伴うものでした。ローマ教皇黄金拍車勲章とナイトの爵位もっていました。ラファエロはさらに高い地位である「枢機卿」になろうとしていたようです。残念ながらその野望が叶う前に37歳の誕生日に夭折してしまいます。

卓越した絵の腕だけではなく、リーダーシップ、企画力、経営力の才能がありそして野心をもった芸術家がラファエロです。まさにやり手の社長タイプといえるでしょう。

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「万能人」の働き方

こんにちはインターン生の野中です。

第二回はダヴィンチと同じ時代に生きた芸術家、ミケランジェロのお話をします。彼は同じ芸術家でありながら、ダヴィンチとはまた違った働き方をしています。

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ミケランジェロ『ダヴィデ像』や『システィーナ礼拝堂天井画』で有名な芸術家です。彼は彫刻、絵画、建築、で類い稀なる才能を発揮し「万能人」と呼ばれていました。

そんなミケランジェロを有名にしたのが当時フィレンツェで大きな力を持っていたメディチ家でした。メディチ家は銀行家の一族で極めて強い力を持っていました。メディチ家の当主ロレンツォ公は、早くも少年ミケランジェロの才能を見抜いて、病没する1492年まで自分の屋敷にミケランジェロはを寄宿させました。

メディチ家はその後彼に何度も多き仕事を依頼します。当時芸術家にはパトロンが付くのが普通でした。パトロンの依頼を受けて制作をし、材料や寝床も面倒を見てくれるのでした。メディチ家はパトロンの中でも最も影響力を持っていました。多くの芸術家を養っておりミケランジェロもその一人でした。

しかし、メディチ家が衰退し国外へ追いやられるとミケランジェロの仕事は激減します。国外へ逃亡したメディチ家からしか仕事がない状態が続きます。それをきっかけにローマへ移り住むと国内だけでなくフィレンツェ、ローマ、フランスとグローバルに仕事を展開します。その活躍ぶりはローマ教皇にも耳に入ります。このローマ教皇は『システィーナ礼拝堂天井絵』の制作を依頼します。しかし頼まれた本人は墓石の石彫をしたかったらしく、快く引き受けた訳ではなかったようです。しかし、ローマ教皇の依頼となると半ば強制的に仕事を引き受けなければなりませんでした。結局8年近くかかってようやく完成させました。

ミケランジェロは長命で88歳まで、現役で活躍し続けました。

ミケランジェロはダヴィンチと違い、メディチ家やローマ教皇などコネをに頼っていました。当時は誰かの庇護の下で働くことが普通でした。しかし晩年はあまりに仕事を引き受けすぎて、途中で仕事を断念しなくてはならなくなっています。また、ミケランジェロは贅沢に興味がなかったようで質素な暮らしを送っていたといいます。まさにワーカーホリックで、仕事に人生を捧げた人でした。

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ダヴィンチの履歴書

初めましてインターン生の野中と申します。大学では絵画を学んでいました。

さて、美術家というと皆さん何を想像しますか?偏屈とか変人、そういったところですよね。じゃあ実際職業としてはどうなのか様々な歴史に名を残すアーティストの働き方を交えながら紹介していきたいと思います。

第一回はかの有名な美術家。レオナルド・ダヴィンチさん!
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彼を知らない人はまずいないでしょう。

万物の天才といわれた彼は美術だけでなく音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野で重要な発見をしました。「万物の天才」といわれた彼はいったいどんな働き方をしていたのでしょうか?

彼ははじめ芸術家として出発します。14歳の時工房に弟子入りし絵を学びます。このころから芸術家として頭角を現し、20歳になると工房の親方になります。さて、この間レオナルドは工房仲間のボッティチェリと食堂を経営していたことがあるそうです。ボッティチェリも巨匠の一人で「ビーナスの誕生」で有名な画家です。この若かりし頃の二大巨匠が経営していた「Tre Ranocchie ( 三匹の蛙)」という食堂は残念ながらすぐに閉店してしまったそうです。

さて、その後ダヴィンチは工房を辞め、教会などの依頼を受けて個人で壁画や油絵を制作をするようになります。しかしレオナルドは仕事を途中で放り出してしまいます。

30歳のときに仕事を探し、ミラノに渡ったダヴィンチはミラノ公爵に画家ではなく、軍事エンジニアとして自分を売り込みます。レオナルドは実際にミラノとヴェネチアの戦争の時に敵の侵入を防ぐ回転する橋を作りました。その後ローマ公王の息子チュザーレに自身を売り込み軍事顧問兼技術者としてイタリア中を回り要塞や地図を作ります。この地図の完成度が素晴らしく、他には類を見ないほどの完成度だったそうです。

晩年はレオナルドはにフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の城の近くにあるクルーの館が邸宅として与えられました。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子や友人たちとともに静かにそこで過ごしたそうです。

レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードになるそうです。スクードといわれてもピンと来ないでしょう。なんとこの金額は日本円でおよそ二億円ほどになります。うらやましい年金生活ですね。

芸術家……というより彼は軍事関係で財産を築いた人でした。彼の人生はまさにやりたいことを全部やったような人生ですね。彼は好奇心旺盛で飽き性だったためかどこか一つの場所に留まるのではなく様々な場所を転々としました。それでも彼が生きていけたのはやはり彼が天才だったからだと思います。

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